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田淵正人兄弟より

「 私の30年間の宣教師との伝道の実績を踏まえての『アイリング長老の日本における教会の発展の預言』の成就へ向けての提言 」

≪  アミュレク・プロジェクト  ≫千葉ステーク 千葉ワード  田淵 雅人

私には、主が日本において、教会を劇的な方法でお建てになり、発展へと導かれるという証があります。日本には長い年月の間、同じような状態にとどまっているかのように見えました。しかし実際には、主は基をお据えになったのです。そして、その基から奇跡は起こるのです。その奇跡は、日本の教会員の心に大きな変化が生じると言う形で起こります。それは今始まったばかりなので目に見えないかもしれません。しかし、日本の教会員が職場の同僚や近所の人たちに教会について話すことを特権だと考える日がやって来ます。皆さんの子供たちはあなたが今見ている日本とは違う日本で生きることになります。なぜなら教会が驚くべき発展を遂げ始めるからです。教会は傑出した存在となり、人々は教会について知りたいと思うようになります。彼らは興味を持ち、やって来ます。皆さんの子供たちはイエス・キリストについて証することを恥ずかしく感じることのない学校や地域社会で育ちます。彼らは自分たちが末日聖徒であることを、いっしょに学校に行く友達や、また先生にさえ喜んで伝えるでしょう。彼らは恐れません。すべての人が教会に入るわけではありませんが、多くの人々が教会員になるでしょう。あなたたちはその始まりを見ているにすぎません。その奇跡の幾分かを、ここにいるすばらしい宣教師に続く次の世代の人々は見ることになります。しかしそれは今始まります。それはこれまでの日本における教会のイメージを、主が変えてくださることによって果たされます。日本の教会員が教会に属していることを、また宣教師から福音を学ぶように人々に勧めることを喜びとする日が来ます。」(アイリング長老の1998年のJMTCでの宣教師に向けてのお話から)

私は宣教師から福音を学び、1981215日に巣鴨伝道所にてバプテスマを受け、それから一年後の1982年に実家の市原市に戻り、千葉ワードの会員となりました。当時、千葉ワードでは、伝道主任のもと、宣教師とのYSAを中心とした伝道活動が非常に活発に行われ、毎週のようにバプテスマがあって、東京北伝道部内では最もバプテスマ数が多く、今思えば、千葉ワードが長生ワードに分割し(後に東金ワードも分割)、さらに数年後にそこから千葉ワードが市原支部(現在の木更津支部)と稲毛ワードに分割して、現在の千葉ステークに至るきっかけとなる、千葉エリヤでの伝道の基を据えていました(D&C64:29-34)。私は当時大学3年生で、私ばかりでなく、多くのYSAの人達がなぜか教会にいりびたっていました。そこでのいつもの挨拶は、「最近、伝道してる?」「棚からボタモチじゃだめだよね!」「モルモン書毎日読んでる?」(D&C84:43-62,46:7-8,45:56-59)でした。教会に行くと必ず宣教師が途中から姿を現し、「今時間ある?今から一緒に伝道しよう!」と言うのでした。それに対して、私達YSAも二つ返事で宣教師について行って、当たり前のように福音を宣べ伝えていました。当時の千葉ワードは伝道活動が中心であり、千葉ワードは伝道活動によって一致していました(モーセ7:10-62)


しかし残念ながら、私が1987年に伝道から帰還した時にはそういった千葉王国を築いていた時の『伝道の伝統』は完全に消滅していました。それでも私個人としては、最盛期の千葉ワードの伝道方法を唯一継承してきて、少なくとも平均すると2週に1回のペースで23時間、30年間宣教師と一緒に伝道活動に携わり、30人以上のバプテスマとお休み会員の再活発化を目の当たりに見ることができ、宣教師と共に喜びを分かち合う機会を得てきました。


私は200710月に癌が見つかり同年12月に手術し、201012月に再発、さらには201110月にもう一度再発して(前回の手術時よりも癌のステージがさらに2段階進んでいて)、今は抗癌剤による入院治療と自宅療養を繰り返している状況です。


2011
9月の最後の安息日に出張中の七十人の青柳弘一長老がわざわざ次女を通じて「体の方は大丈夫ですか?」と声をかけてくれた日は、体調が最悪の状態で、翌日は仕事を休んで近所の診療所に行って診てもらいましたが、「ノロウィルスですね」と言われ、薬だけ渡されて帰ってきました。私はその翌日もさらに体調が悪くなっていたために、七十人として多忙の青柳長老が私のことをわざわざ心配して連絡してこられたことに心を留めて、妻の勧めもあり、その日も仕事を休み東京の主治医に診てもらうことにしました。すると、CTスキャンで影が見つかり、さらに腹部エコーを通して腸の外側と内側にそれぞれ7cm大の腫瘍があることが分かり、このまま放置しておくと腸内で腫瘍が大きくなってやがては腸が破裂して2011年内中にも命を落としていたことが分かり、すぐに緊急手術を受けました。私は青柳長老の警告の声に救われたのでした。後で青柳長老に伺ったところ、その朝、私に関して特別な示現を受けたようで、心の中で「早く!早く!」といった感じを心に強く受けたとのことでした。青柳長老に感謝しています。また、神様が私のような罪深く取るに足りない者を心にとめ、私を生かしてくださったことに心から感謝しております(モーサヤ2:20-24)。入院中に、青柳長老が普段からよく言われていた、アルマ7:11-16のイエス・キリストの贖いと、モーサヤ18:9にある「いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、死に至るまでも神の証人になることを望んでいる」というバプテスマの聖約が特に鮮明に私の心に残り、これまでの人生の50年間を振り返ってみたところ、私の生涯の内で最も良い思い出は18歳の時にバプテスマを受け、宣教師と一緒に伝道してきた経験のみでした。神様がなぜ私を生かしてくださったのか心に深く考えた時に、私は聖霊の力を通して、私を使ってこの伝道方法をもう一度千葉ワードで確立するように望んでおられることがはっきりと分かりました。

以下がアミュレク・プロジェクトの概要です。(20123月より断食安息日に毎月パワー伝道を開催) アミュレクはこの世的には何不自由のない生活を送っていましたが、霊的には福音を宣べ伝えることについての大切さは頭では分かっていたものの、あえて自分からは知ろうとはしませんでした(アルマ10:4-6)。しかし、アルマとの劇的な出会いを通じて、アルマ(宣教師)と共にアミュレク(教会員)も福音を宣べ伝えるように、主はアミュレクに命じられました(アルマ8:29-30)。アモナイハでの伝道で民はアルマに言いました。「神は何者なので、そのように大いなる驚くべき業が現実に起こる事をこの民に告げ知らせるのに、権能を持つ者をたった一人しか送らないのか。」(アルマ9:6)しかしアミュレクも証に加わると「人々は、自分達が責めを受けている事柄について証する証人が一人にとどまらなかったので、またその証人たちがその内にある預言の霊によって将来起こることも証したので、驚いた。」(アルマ10:12)と書かれています。アミュレクの宣教師としての経験は彼の人生にとってどういう影響を与えたでしょうか。「さて、アミュレクはかつて自分の友であった者たちから拒まれ、また自分の父親や親族からも拒まれたので、アモナイハの地にある自分の金、銀、貴重な品々をすべて神の言葉のために捨てた。したがって、アルマはシドムに教会を設立した後、大きな抑制が働いたこと、まことに、民がその心の高ぶりを抑え、聖壇の前で神を礼拝するために聖堂に集まって、サタンと死と滅亡から救われるように、目を覚ましていて絶えず祈るようになったことを知り、アルマはこれらのことをすべて見てから、アミュレクを連れてゼラヘムラの地へ向かい、自分の家に彼を迎えた。そして、艱難に遭っているアミュレクに必要なものを与え、主にあって彼を強くした。」(アルマ15:16-18,ピリピ3:7-16,マタイ16:24-27)と書かれています。

「『見よ、私はもう一度だけ、私の果樹園の刈り込みをしよう。』そして、果樹園の主人は僕を遣わした。それで僕は行って、主人から命じられたとおりにし、他の僕たちを連れて来た。その数は少なかった。それで果樹園の主人は僕たちに言った。『行って、果樹園で力を尽くして働きなさい。これが、私が果樹園に養いを与える最後の時である。終わりは既に近く、時節はすぐに来る。しかし、あなたがたが私と一緒に力を尽くして働くならば、私がもうすぐやって来る時節に備えて私自身のために実を蓄える、その実によってあなたがたは喜びを得るであろう。』」(ヤコブ5:69-71)


「さて見よ、驚くべき業が、まさに人の子らの中に現れようとしている。それゆえ、おお、神の務めに出で立とうとする人々よ、終わりの日に神の前に罪のない状態で立てるように、あなたがたの心と、勢力と、思いと、力を尽くして神に仕えなさい。あなたがたは神に仕えたいと望むならば、その業に召されている。見よ、畑は既に白くなり刈り入れを待っているからである。見よ、勢力を尽くして鎌を入れる者は、滅びることなく自分に救いをもたらすように蓄えるのである。神の栄光にひたすら目を向けて、信仰、希望、慈愛、愛を持つ者には、その業に携わる資格がある。信仰、徳、知識、節制、忍耐、兄弟愛、信心、慈愛、謙遜、勤勉を思い起こしなさい。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。叩きなさい。そうすれば、開かれるであろう。アーメン。」(D&C4:1-7)


「また、あなたがたの中で御霊において強い者(宣教師)がいれば、その人は弱い者(教会員)を伴って行きなさい。それは、弱い者ができるかぎり柔和に教化されて、彼らも強くなるためである。それゆえ、あなたがたは小神権に聖任されている者を伴い、彼らをあなたがたに先立って行かせて、約束を取りつけさせ、道を備えさせ、あなたがた自身の果たせない約束を果たさせなさい。見よ、これこそ、昔の私の使徒たちが、私のために教会を築き上げた方法である。」(D&C84:106-108)


「彼らは正しい理解力を備えた人々であり、また神の言葉を知るために聖文を熱心に調べてきたので、すでに真理を深く知るようになっていた。そればかりではない。彼らはしばしば祈り、また断食もしたので、預言の霊と啓示の霊を受けていた。そして、教える時には、神の力と権能をもって教えた。そして、彼らは、それまで14年間レーマン人の中で神の言葉を教えて、多くの人に真理を知らせるのに大きな成功を収めていた。まことに、彼らの言葉の力によって、多くの人が神の聖壇の前に導かれ、神の名を呼び、神の前で自分たちの罪を告白した。さて、彼らが旅をしていた間の状況は次のとおりである。彼らは多くの苦難に遭い、飢えや渇き、疲労、多くの霊的な苦労など、肉体的にも精神的にも酷く苦しんだ。さて、彼らはレーマン人に神の言葉を宣べ伝えるためにニーファイの地へ上って行った。また彼らは、主が御霊の一部を授けて自分たちに伴わせて下さり、また留めて下さることを願って、大いに断食し、大いに祈った。それは、彼らが神の手に使われる者となり、できれば自分たちの同胞であるレーマン人に真理を知らせ、彼らの先祖の正しくない言い伝えが不純であることを知らせるためであった。そこで主は彼らに御霊を下し、『慰めを得なさい』と言われた。そこで、彼らは慰めを得た。主はまた彼らに、『あなたがたの同胞であるレーマン人の中へ行き、私の言葉を確立しなさい。しかし、あなたがたは私にあって彼らに良い模範を示せるように、長い苦しみと苦難の中で忍耐強くありなさい。そうすれば、私はあなたがたを私の手に使われる者として多くの人を救おう』と言われた。」(アルマ17:2-11)


「さて見よ、兄弟たちよ、生まれながらの人でこれらのことを知っている人がいるだろうか。私はあなたがたに言う。悔い改めた人以外、これらのことを知っている人は誰もいない。まことに、悔い改めて信仰を働かせ、善い行いをし、絶えず祈り続ける人には、神の奥義を知ることが許され、まことに、まだ明らかにされていないことを明らかにすることが許される。また、この同胞を悔い改めに導く務めが私達に与えられたように、何千もの人々を悔い改めに導く務めがその人に与えられる。」(アルマ26:21-22)


「私たちは謙遜な気持ちで、この伝道活動の成功を喜んでいます。同時に、ここに至るまでは、主の御手と主の弟子たちの献身的な働きがあったことも承知しています。しかし成すべきことはまだまだ多く残っているのです。私たちは伝道活動について大いに急ぐべきことを感じていますが、果たして、私たちにその歩みを速めることができるのでしょうか。問題は、この業に携わる義務があり、かつ実際に携わることのできる人々が皆、基本的な原則と、『この福音を全世界に宣べ伝えよ』(マタイ28:18-20)という神の戒めが与えられた目的を本当に理解し、信じているかどうかです。現在のところ、3万人の宣教師が働いていますが、本来ならばその何倍もいて当然であり、また可能なはずです。もし彼らが自らを備え、与えられた義務を果たすために歩みを進めるならば、伝道活動は私たちが限界と考えている線をはるかに超える速さと規模で進められることでしょう。私はこの点について深く考え、祈りました。そして、何を話したらよいかとあれこれ考え、また、話す力を神に願い求めました。この業に忠実であるべき人々を動機づけるためです。そうするとある言葉が心に浮かんできました。わかりやすい言葉です。しかもこれまで何度も教えられてきた言葉ですから、それをお聞きになっていることを繰り返すことになります。この言葉は私たちに、キリストの下に来て、キリストによって完全な者となるようにと招いています。つまり、『心を尽くし、勢力を尽くし、思いを尽くし、体力を尽くしてキリストに仕える』(モロナイ10:32-33)という言葉です。もし私たちがこの言葉通りに行うならば、私たちは罪の赦しを得、一点の汚れもない聖い者となります。そして天父が送っておられるような生活をすることができます。救い主は、御自身に仕えることを条件として、私たちに素晴らしい祝福を与えようとその手を差し伸べておられます。主が言われるこの奉仕の意味をよく考えてみると、それは基本的に、福音の真理を知らない人々に教えることであるということがわかってきます。ところが、その言葉の簡潔さや、それが神から命じられたものであるという事実、さらには永遠の祝福という確かな約束をもってしてもなお、本来なら主に仕えるべきであり、それができる状態にいながら、奉仕しようとしない人々がいるのです。そうなると、彼らは本当に伝道の業の二つの目的を理解し、信じているのだろうかと首をかしげざるを得ません。伝道の二つの目的は、第一に、宣教師自身を聖めることであり、第二は、改宗者に回復されたイエス・キリストの福音の真理を伝え、主の教会に入るためのバプテスマへと導くことです。これは、聖めの道を歩む宣教師にもたらされる確かな、そして当然の成果です。」(1981年総大会でのウィリアム・R・ブラッドフォード長老の『伝道活動を通じて聖くなる』のお話より)

「まことに、召される者は多いが、選ばれる者は少ない。では、なぜ彼らは選ばれないのであろうか。それは、彼らがあまりにもこの世のものに執着し、人の誉れを得る事を望んでいるために、次のような一つの教訓を学ばないからである。すなわち、神権の権利は天の力と不可分のものとして結び付いており、天の力は義の原則に従ってしか制御することも、運用することもできないということである。なるほどそれらが私達に授けられる事もあろう。しかし、私達が自分の罪を覆い隠そうとしたり、自分の高慢、自分のうぬぼれた野望を満たそうとしたり、あるいはいかなる程度の不義によってでも、人の子らを制御し、支配し、強制しようとしたりする時、まことに、天は退き去り、主の御霊は深く悲しむ。そして、主の御霊が退き去ると、その人の神権、すなわち権能は終わりである。すなわち、ほとんど全ての人は、少しばかりの権能を得たと思うや、すぐに不義な支配を始めようとする性質と傾向がある。それ故、召される者は多いが、選ばれる者は少ないのである。いかなる力も影響力も、神権によって維持することはできない、あるいは維持すべきではない。ただ、説得により、寛容により、温厚と柔和により、また偽りのない愛により、優しさと純粋な知識による。これらは、偽善もなく、偽りもなしに、心を大いに広げるものである。聖霊に感じた時は、その時に厳しく責めなさい。そしてその後、あなたの責めた人があなたを敵視しないために、その人に一層の愛を示しなさい。それは、あなたの誠実が死の縄目よりも強いことを、その人が知るためである。またあなたの心が、全ての人に対して、また信仰の家族に対して、慈愛で満たされるようにしなさい。絶えず徳であなたの思いを飾るようにしなさい。そうする時に、神の前においてあなたの自信は増し、神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。聖霊は常にあなたの伴侶となり、あなたの笏は義と真理の不変の笏となるであろう。そして、あなたの主権は永遠の主権となり、それは強いられることなく、とこしえにいつまでも、あなたに流れ込むことであろう。」(D&C121:34-46)
「あなたがたは、主なる神が、御子の位に従う聖なる位に従って祭司たちを聖任し、民にこれらの戒めを教えるようにされたことを覚えておいてほしい。その祭司たちは神の御子の位に従って聖任されたが、人々はその聖任の仕方から、どのようにすれば神の御子を待ち望んで贖いを得られるかを知ることができた。」(アルマ13:1-3)


「またあなたがたの務めの鍵と、私が彼らに明らかにした事柄と同じ事柄の鍵を持つことをあなたがたに確認したペテロとヤコブとヨハネ、すなわち、終わりの時代のために、また天にあるものと地にあるものの全てを一つに集める時満ちたる時代のために、私の王国の鍵と福音の神権時代とを私が委ねた3人と共に、また、父が世から私に与えて下さったすべての者と共に、私は飲むであろう。それゆえ、あなたがたの心を高めて喜び、また腰に帯を締めなさい。災いの日に耐えられるように、そして全てを成し遂げて立つことができるように、私の武具を身に着けなさい。それゆえ、立って真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、私が天使たちを遣わしてあなたがたに託した平和の福音の備えを足に履き、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことのできる信仰の盾を取り、また、救いのかぶとをかぶり、私があなたがたに注ぐ私の御霊の剣を取り、私があなたがたに明らかにする私の言葉を保ちなさい。また、あなたがたが私に求める全てのことについて心を一つにし、私が来るまで忠実でありなさい。そうすれば、あなたがたは引き上げられて、私のいる所にあなたがたもいるようになるであろう。アーメン。」(D&C27:12-18) 「見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これが私の業であり、私の栄光である。さて、私の子モーセよ、私はあなたが立っているこの地球についてあなたに語ろう。あなたは私が語ることを書き記さなければならない。人の子らが私の言葉を価値のないものと見なし、あなたが書き記す書からその多くを取り去る日に、見よ、私はあなたのような者を一人立てよう。そして、あなたが書き記すものは、人の子ら、すなわちそれらを信じる全ての者の中に(モルモン書が)再びあるであろう。』」(モーセ1:39-41)
「地が安息を得る日が来る。しかし、その日の前に、天は暗くなり、暗黒の幕が地を覆うであろう。天が震え、地も震えるであろう。そして、酷い艱難が人の子らの中にあるが、私は自分の民を守ろう。また、私は天から義を下そう。また、地から真理(モルモン書)を出して、私の独り子の復活と、また全ての人の復活について証しよう。そして、私は義と真理が洪水のごとくに地を満たすようにし、私が備える場所、すなわち聖なる都に地の四方から私の選民を集めよう。それは、私の民がその腰に帯を締め、私の来臨の時を待ち望めるようにするためである。私の幕屋はそこにあり、そこはシオン、すなわち新エルサレムと呼ばれるであろう。」(モーセ7:61-62,D&C101:20-25)


「見よ、高い所から遣わされた者、力強く勢力のある者、地の果てまで出て行く者、まことにその声が人々に及ぶ者の声を聴きなさい。『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。』神の王国の鍵は地上の人に委ねられており、あたかも人手によらずに山から切り出された石が全地に満ちるまで転がり進むように、そこから福音は地の果てまで転がり進むであろう。まことに、一つの声は叫ぶ。『あなたがたは主の道を備え、小羊の婚宴を備え、花婿のために用意をせよ。』主に祈り、主の聖なる名を呼び、主の驚くべき業を人々の間に知らせなさい。主に呼び求めて、主の王国が地上に進み行くようにして、地に住む者がそれを受け入れて来るべき時に備えられるようにしなさい。その時、人の子は、地上に建てられた神の王国に会うために、その栄光の輝きをまとって天の中を降って来るであろう。そのために、神の王国が進み行きますように。それによって、天の王国が来て、おお、神よ、あなたが天でも地上でも讃えられ、あなたの敵が征服されますように。誉れと力と栄光は、永久にいつまでもあなたのものです。アーメン。」(D&C65:1-6)


「人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。見よ、主なるあなたがたの贖い主は、肉体において死を受けた。それによって、すべての人が悔い改めて自分の元に導くことができるように、主はすべての人の苦を引き受けた。そして、悔い改めを条件として、すべての人を自分のもとに導くことができるように、主は再び死者の中からよみがえったのである。人が悔い改める時、主の喜びはいかに大きいことか。あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶために召されている。あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし、一人(自分自身)でも私のもとに導くならば、私の父の王国で彼と共に受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。さて、あなたがたが私のもとに導いて私の父の王国に入れるようにした、一人の人と共に受けるあなたがたの喜びが大きいならば、もし多くの人を私のもとに導くとすればその喜びはいかに大きいことか。見よ、私の福音はあなたがたの前にある。私の岩、また私の救いがある。与えられると信じて、信仰をもって、私の名によって父に求めなさい。そうすれば、あなたがたは人の子らに必要なすべてのことを示す聖霊を受けるであろう。もしもあなたがたに信仰と希望と慈愛がなければ、あなたがたは何も行うことができない。キリストの名を受け、まじめに真理を語りなさい。悔い改めて、イエス・キリストである私の名によってバプテスマを受け、最後まで堪え忍ぶ者は皆、救われるであろう。見よ、イエス・キリストとは、父から与えられている名である。この名の他には、人に救いを与えることのできる名は与えられていない。それゆえ、すべての人は、父から与えられているこの名を受けなければならない。この名によって、人々は終わりの日に呼ばれるからである。それ故、人々は自分が呼ばれる名を知らなければ、私の父の王国に住む場所を得ることはできない。」(D&C18:10-25,31:1-13,133:45-53,アルマ5:14-28,37-42,モロナイ10:32-33)
「私は、自分がやがて墓に入らなければならないことを知った。私はこの民に教えを説き、預言しなければならないこと、またキリストにある真理に従って御言葉を告げ知らせなければならないことを、神の力によって感じてきた。それで私は、生涯それを宣べ伝え、俗世のことよりもそれを喜びとしてきた。私は間もなく安息の場所へ行く。それは、贖い主のもとでの安息である。私は、贖い主によって安息を得ることを知っているからである。私は自分の死すべき体が不死のものを着て、贖い主の前に立つ日のあることに喜びを感じる。その時、私は喜んで贖い主の顔を拝するであろう。そして、贖い主は私に、『祝福された者よ、私のもとに来なさい。私の父の住まいには、あなたのために用意された場所がある』と言われるであろう。アーメン。」(エノス1:26-27)