モルモン

とは?

What of the

Mormons?

日本の末日聖徒イエス・キリスト教会歴史

昇栄への備え、渡部 正雄兄弟

 

 

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Parts 48-93

主よ暴風雨荒び

「去る九月十六日、突如として日本全土を襲った十八号台風は、またもや各地に多くの被害を残して退陣して行きのとかましたが、今夜は満月。長閑に東の空高く中秋の名月は、静に多くの犠牲者を葬っているかのように、秋風に泣く虫の声もそぞろに哀れをもよおします。 

被害の大きかった大阪、新潟地区には多くの兄弟姉妹がいらっしゃるので、もしや災難に遭い困っているのではなかろうかと御案じ申し上げ、このような時に何かお手伝いができたらと、わが身に思い比べて誠にお気の毒に御同情申し上げる次第であります」(i(一九六位置年十八号台風の後、この一文を被害地の兄弟姉妹宛に送った書簡

あの恐ろしい十八号台風一過、主の安息日に教会に集った兄弟姉妹から、「今度は大丈夫でしたか?」と暖かいお気遣い身にしみて、感謝しつつ思い出されるのは、一昨年の伊勢湾台風の時のことでありました。 

その日もちょうど安息日の前日の夜でした。夕闇の迫るとともにますます烈しくなってきた暴風は、四方より吹き荒れて山の頂に建つ粗末なわが家は、さながら大波に揺られる木の葉のように揺さぶられ出しました。瓦が飛ぶ、戸が外れる、戸を釘付にしようと思い外に飛び出した私の身を気遣い、「お父さん、危ないから早く家に入りなさい」と叫ぶ子供たちの声。 

すでに停電となった真暗なわが家は、猛り狂う暴風雨の中で今か今かとその自然の力に押しつぶされる時を待っているかの様でした。小さな子供たちは、震え上がって私のかたわらを離れません。私は、家族全員に避難の身仕度をさせてともに座り、手を離さないように言いました。戦時中の空襲の時とそっくりでした。この恐怖の中で、唯一の頼りのトランジスター。ラジオは深夜の十二時を回ったことを告げ、刻一刻と強まる風速が不気味な前兆の如く報ぜられてきます。「風速三十六メ…トル」近所の家の倒壊と二人の犠牲者が出たことをラジオは報道しています。いよいよわが家の番に回って来たのを感じた私は、(おのの)く子供たちの手をしっかり握って、「さあ皆でイエス様にお祈りしよう」と力強く言い聞かせました。このとき家内が、「この家は砂の上に建てられた家のようだ」と静かに言いました。その言葉に私は愕然としました。 

暗黒の四畳半の中で親子八人の者が荒れ狂う風雨の叫びを外に、心をひとつにして一生懸命主に祈りました。この長い深夜の祈りに私たちは、まず私たちの行為のいたらないことを心から主にお詫びいたしました。外は依然として暴風が猛り狂っていましたが、長い祈りに不思議と幼児たちまでがすっかり落ち着き、やがてすやすやと眠りに入ったのです。 

「それで、わたしのこれからの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」(マタイ七章二十四〜二十七節)

午前三時、どうやら風も静まり安心したのか、ついうとうとしたと思ったらもう夜が明け、東方の空には早や朝の太陽が輝いていました。 

「ああ、よかった」一家無事であったことをまず感謝し、庭に出て無惨にもほとんど瓦のはぎとられてしまった屋根を唖然と眺めていると、「わたべきょうーだーい。だいじょうぶですか」と遥かに声が聞こえて来ます。驚いて振り返ると、遠くの山の下から救急箱を抱えて一人の姉妹が一生懸命駆け登って来ます。ああ主が遣わし給うたこの姉妹、私たちは涙の中に彼女を迎えました。彼女を囲んで家族は、朝日の照りわたる庭にひざまずき、再び主なる神に感謝の祈りを捧げました。この恐ろしき一夜、主が共にこの家にいて私たちを守り給い、主と共にこの素晴らしい主の安息の朝を迎えることができたのです。私たち家族は、神の使者であるようなその姉妹と共に荒れ果てた街道を通って教会へ急ぎました。

教会が無事であったこと、そして愛する兄弟姉妹たちと主の下に逢えたことを私たちは心から喜び合いました。やがて日曜学校が始まり、開会の歌が声高らかに響きわたりました。

主よ、嵐すさび波いと高し

天暗く覆われかばうものなし

われら死ぬも主は眠りたもうや

荒れ狂い迫り来る墓は怒りて

風も波もみ旨に従え

荒海や悪魔の怒りはいかにあるとも

この船は沈め得ず天地の主がいますを

海は「鎮まれ」との仰せを守れ

海は「鎮まれ」との仰せ聞け

そうだ。主はこの主の日を迎えるため、昨夜来から荒れ狂った暴風雨に、「鎮まれ」と仰せられたのだ。そしてその暴風雨のうなりの中で深夜、親子が心をひとつにして主に祈った時、ああ牢屋のわが船に主が乗り給い、悪魔らの怒りもこの船を沈めることができなかったのだ。いつしか私の眼から熱い熱い感謝の涙が溢れ落ちました。主を賛美するひとつの心の愛の声が響いて行きました。(賛美歌五十九番)

主よ、恐怖(おそれ)は去り 世は鎮まりぬ

日は湖水(みずうみ)に照り 心長閑(のど)けし

主よ我のもとを 離れたもうな

御幸ある彼岸(かのきし)にて我れは休息(やすら)わん

平安

「私は平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」(ヨハネ十四章二十七節

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ十一章二十八〜三十節)

私たち弱い人間は、誰でも自尊心を傷つけられると不快になります。そしてその相手を愛せないばかりか、時には憎しみの心さえ生じてそれが心の重荷となって来ます。それが募ると神経衰弱、ノイローゼになります。人が恐ろしくなって、どこかへ逃避したくなって、果ては自殺もしかねなくなります。私もこのうぬぼれや高慢心のため非常に苦しみ、三日間断食して祈りました。その時、主は私にささやかれました。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うてわたしに学びなさい。そうすればあなたの魂に休みが与えられるであろう。」 

私は実に欠点の多い弱い人間で、それを愛と勇気をもって面責してくれた人こそ感謝すべき恩人です。高慢心から不快に思っていた自分自身が恥ずかしくなり、ほんとうに相手に申し訳ない気持になりました。私の胸の中に戒めてくれた人に対し、感謝の念と愛の熱が燃えてきた時に、すべての苦しみは消え重荷は取れて、主の平安に満たされたのです。

教義と聖約には、「人の子はこれらすべての下に身を落とした。あなたは人の子よりも大いなる者であろうか。」(教義と聖約百二十二章八節)と書かれています。主はユダの足をも洗われました。主は言われた、「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイニ十三章十一、十二節

モルモン書の中に、「見よ、現世は人が神にお会いする用意をする時期である。真に、現世の生涯は、人が各自の務めを果たす時期である。」(アルマ三十四章三十二節)と書かれていますが、私たち誰一人として幸福を願わない者があるでしょうか。では真の幸福とは何でしょうか。それは、主の平安であり、永遠の生命です。「見よ、人に不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。」(モーセ一章三十九節

北斗七星

ソルトレーク市の星空に省えたソルトレーク神殿は、世界にも有名な美しい建物です。その神殿の西壁に北斗七星がちりばめられて、夜空に輝く天の北斗七星と相対しています。 

北斗七星は英語で、Great DipperさらにDipperの意味は辞書で見ると、次のように書いてあります。

一、北斗七星

二、すくうもの、ひしゃく、しゃもじ

三、水中にもぐる鳥(かわせみ等)

四、浸す人()、浸礼教徒 

私は、予言者ブリガム・ヤングがこの神殿を建てられる時、聖徒たちが荒野をわたる道標となったので記念としたと学びましたが、同時に末日聖徒の象徴として北斗七星を神殿の壁に飾ったのだろうと推測します。 

シナイ山上でエホバの指示によりモーセの建てた荒野の神殿、幕屋の中にも七本の燭台がありました。創世紀の初めに、「はじめに神は天と地とを創造された。」とあり第二章に「こうして天と地と、その万象とが完成した・神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。これが天地創造の由来である。」(創世紀二章二〜四節

七日目が主の日、安息日でした。人類の祖アダムとエバ以来、エノク、ノア、アブラハム、モーセと五つの神権時代を経て、予言者ジョセブ・スミスにより六番目に最後の神権時代に入り、主の再臨と共に人類は七番目の神権時代、福千年に入ります。天に輝き、そしてソルトレーク神殿にちりばめられた七つの星は、その数を象徴するものではないでしょうか。明けの空に燦然と輝く北斗七星をじっと見つめていると、天はそうささやいているように感じます。 

主イエスに愛されたヨハネがバトモス島に流され、主の日に御霊に感じ、その時、後の方でラッパのような大きな声がするのを聞いた。 

「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネ黙示録一章十二〜十六節)

 

八聖殿

横浜の本牧海岸にある八聖殿に、キリストが釈迦、孔子、マホメット等に交って世界の八聖人のひとりとして祭られています。釈迦も孔子も確かに聖者でしたが、キリストは神の独り子です。全知全能絶対永遠完全なる神、天父が霊的にも肉体的にも父であったのは、古今東西、全人類の中でキリストだけです。乙女マリアが、聖霊によって身ごもって生まれたのがキリストです。 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三章十六節)

私たち凡夫も神の子であり、一生かかって修養すれば、聖者の域にまでは達せられるのです。けれども独り子は、天の父なる神を肉体的にも父とするキリストだけです。その独り子を天父は、私たちが救われるようにと十字架にかけられ、順いの主、キリストの使命が達成されたのです。私たち罪人は、誰でも悔い改めて瞭いの主キリストに来るとき、何物よりも尊い主の平安、永遠の生命を得られるのです。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ一章一、十四節)

神道でも、事の真なるものをまこと(真理)と言い、真を持っている者をみこと()と言い、みことは神でした。日本では大国主の神とも、また大国主の尊とも言い、人は神すなわち神の子でした。言葉はこの真言の葉、すなわち真理から生え出たものであり、その真理が人間の肉体をもって神の御心、人類の蹟いを実現したのが、キリストの生涯です。主は言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ十四章六節)

孔子は、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」、「自ら顧みて正しければ、千万人といえども我行かん」と徹底的に人の生きるべき道を説き、釈迦も人の生きる真の道、真理を説きましたが、キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言されました。孔子や釈迦が、「ここに道がある。この道を進んで行けば救われる」と言ったその道は、わたしは道であり、命であると宣言したキリストであったのです。

孔子は、弟子の季路が来世について聞いたとき、「我未だ生を極めず、いずくんぞ死を知らんや」と答えられました。死んでからのことは、やがて西方に聖者が現われて説くであろうと、キリストの降誕を預言されたのです。

十二月八日

今日は、一九四一年に日本が第二次世界大戦で対米宣戦した月日にあたります。「(ちん)ここに米英に戦を宣す」との詔勅(みことのり)を奉じて戦場へと出で立った日です。私たちは、ただ君のため、国のため身を捧げる一念に燃え立ち暁の星を仰ぎ、神前の霊気を震わせて勇み立って戦線へ向かったのです。そして、多くの戦友が戦場の花と散り、尊い青春の血

で大地を染めて行ったのです。

国破れて山河あり、戦友を失い悄然と戻って来た私たちを迎えたのは、焦土と化した故国の姿でした。敗戦と共に世界の劣等国に堕した故国の姿はあまりにも痛々しく、二千六百年の伝統を守る神国日本はどこに行ってしまったのでしょうか。明治維新以来、大正、昭和と一躍列強に伍して自省の暇もなく、高慢止まるところを知らなかった日本民族に下された神の一大鉄鎚、これこそ初めて経験した敗戦日本の姿でした。一億総懺悔(ざんげ)の時が来たのです。ここに二つの話を紹介します。

「真珠湾攻撃隊の航空隊長であった某大佐は奇跡的に生還しました。しかし、国民に非難の眼を受けて憤然として人里離れ山中に籠って開墾の鍬を振るっていましたが、戦犯証人として召喚され、ある日横浜へ交換病院船で戻って来る戦友を迎えに行ったそうです。

そのとき、病院船で一人のアメリカ人看護婦に多くの日本人傷病兵が、あたかも母のように彼女を慕っているその美しい光景に胸を打たれ、どんな事情があるのかと彼女に尋ねました。彼女は、『私の父母が日本人に殺されましたが、私は日本人が好きです』と。

以外な答えにさらに事情を聞いてみると、彼女の両親は戦争中、宣教師としてフィリッピンで活動していましたが、スパイの嫌疑で銃殺されたそうです。故国アメリカにいてそれを聞いた彼女は、むらむらと起こってくる日本人に対する憎しみと怒りを抑えることはできなかったそうですが、両親が銃殺の直前に、『祈らせてくれ』と頼んで、数分間祈ったことを聞き、その祈りがどんな祈りであったのか尋ねましたが、誰もその内容は知らず、彼女は断食して祈って天父に尋ねたそうです。そして、その答えは与えられました。

それは、主が十字架上で息を引き取られる寸前に、苦悶の中から言われた言葉。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカニ十三章三十四節)

その瞬間、彼女の胸に煮えたぎっていた憎しみの炎は消え、親の仇である日本人に対する憐れみの情、大いなる神の愛がこんこんと湧き上がって来られたそうです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ五章四十四節)と言われた、主の愛が彼女の心の中に注がれたのでした。彼女は早速志願して日本傷病兵付の看護婦になられたのだそうです。

これを聞いた気丈夫なかっての攻撃隊隊長も男泣きに泣いて、『どうぞ、私をあなたの弟子にして下さい』と頼み、クリスチャンに改宗、神学校を卒業して牧師となり、主のため、同胞のために活躍しておられるそうです。

私の友人である日本人教会員は、戦争未亡人であるアメリカの教会員によってブリガム・ヤング大学を卒業させてもらい、現在アメリカの実業界で活躍しておりますが、先日スポンサーであった彼女と初めて感激の対面をしたそうです。そのとき、彼女は涙ながらに次のような話をされました。

「私の夫が第二次世界大戦で戦死したとき、私は敵国である日本人に対し非常な怒りと憎しみを感じ、じっとしていることができず、監督のところへ相談に行きました。監督は静かに、『あなたができる何かをしてあげたらどうでしょうか』と提案されました。その時、私は者芝湯を呑む思いでした。けれども、私は夫亡き後・いつしか生活のため働くにあたり、少しつつでも貯蓄して日本人の良い会員を教会の大学に学ばせようと決心しました」

そこで幸運にも選ばれたのが私の友人でした。彼女は彼にほんとうの母親のような愛を示されたそうです。その彼女の愛は、すべての日本人に対して持つ神の愛に他ならないのです」

誠に主は人を変え給う。すべての日本人が主によって再生すべき時が来たのです。東洋事情、特に日本を研究している某アメリカの大学教授は、敗戦後希望を失っていた私たちにこのように言われました。

「日本人の天皇に対する忠誠心を主に向け、日本刀の代わりに聖書を手に持ったら、日本人は素晴らしい国民に再生するだろう」と。

誠に主は、王の王であり大君です。今や日本人の覚醒すべき時であり、日本人も平和の戦士として聖典を手に持ち、福音を携えて伝道のため世界に向かって出立つ時です。

十字架

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ九章二十三、二十四節

私たちは、皆多かれ少なかれ精神的、肉体的になんらかの苦しみを体験してきています。それは、主の十字架を知るために各自に恵まれた自分の十字架です。パウロは、「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(ヘブルニ章十八節)と書いています。私たちの他人に対する愛は、まず理解から始まります。他人の気持を理解した時、同情心が起りそれが愛に発展します。他人を真に理解するには、自分も他人と同じような立場に立つこと、すなわち他人の苦しみを経験しなければなりません。自分に経験がなくして、どうして他人の気持をほんとうに理解できるでしょうか。だから、私たちが試練を受けることは、神の恩恵です。ペテロは言っています。 

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(第一ペテロ四章十二〜十四節

十字架には不思議な力があります。自分の十字架を負うて主に従う時、その十字架があなたを支えます。主があなたと共にいるからです。私たちは足で立って歩き、手を動かして働く。その手足の指がなぜ十本あるのでしょうか。それは十字架の象徴です。一、二、三と始まって九、十で完結する。九は苦しみ、すなわち私たちの十字架、十は主の十字架、九から十へ自分の十字架を負うて主に従うのです。中国では十月十日を双十節と言います。これまさに自分の十字架と主の十字架の二つの十字架を祝う日ではないでしょうか。十は英語でten()であり主は、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ五章四十八節)と。はっきり九から十への道を示して下さっています。パウロもコリント人への手紙の中で、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」(第一コリント一章十八節

インドの聖者サンダーシングは、チベットで伝道をしていた時、次のような経験をしました。 

「ある寒い大雪の日に、私は山道をある村を目指して進んでいました。その時、一人の旅人が私と道連れになりました。二人は吹雪に悩まされ、寒さで体温も下り、生きて村に辿(たど)りつけるかどうか危ぶまれて来ました。雪を分けつつ、険しい山道を辿って行きました。 

あるところにさしかかった時、谷に滑り落ちて気絶している旅人を見つけました。私は同行の旅人に、『あの人を助けに行こうじゃないか』と言うと、その人は、『自分一人の命も危ぶまれている時に、人を助けるなど思いもよらぬことだ』と言って、先に行ってしまいました。しかし、私は共に死んでもかまわぬと思って谷へ降りて行き、倒れている人を肩に背負い精一杯の努力をもって引き上げました。私は、旅人を背負って歩き出しました。寒さのために意識を失って背負われている旅人の身体も暖まって来ました。しばらく進むと、自分たちをおいて先に行った人が、雪の中ですでに冷たくなっていました。私たちはしばらく後、目指す村に到達し背負って来た人を介抱しました。旅人は正気づいて、死の手から救われたことを神に感謝しました。 

この事実は主の、「己の生命を救おうとする者は己を失い、我ために生命を失う者は之を得るであろう」と言う、聖言のよい例でありましょう。 

霊峰富士

エホバがモーセに語った。「シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。」(出エジプト記十九章十八節)

パウロは、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」(ヘブル十二章二十九節)と言っています。富士山の「ふじ」は、不二または不死、不死不滅永遠であり唯一であることからとったと言われていますが、本当はアイヌ語のフチ()から来たもので昔は活火山であったからだそうです。いずれにしても誠に主の姿を象徴するものです。

黙示者ヨハネは、「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。」(ヨハネ黙示録三章五節)と言いましたが、歌にもあるように、「体に雪の着物着て」純白な天然の衣をまとって永遠に讐え立つ姿は、イエス・キリストのごとく威厳があります。「見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。」(モーセ一章三十九節)と言われました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の生命を得るためである。」(ヨハネ三章十六節)また、「永遠の生命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ十七章三節)と言われています。

主はイスラエルの民を荒野に導かれた時に、昼は柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼夜彼らを進み行かせられました。また昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があったと記されています。その幕屋、至聖所の中には契約の箱が置かれ、箱の上には栄光に輝くケルビムがあり順罪所を覆っていました。これは恵みの座、エホバの座でその上に昼夜、火の柱と雲の柱が立ったのです。

朝日が昇る時、富士の頂上がよく白雲に包まれ、山頂の白雲と一体となって赤く輝く、その時私はシナイ山上の雲を火を思い主をしのぶのです。誠に富士には生命があり、生きており、主の姿威厳があります。

基督心宗の創始者川合信水氏は、霊峰富士を主の姿と仰ぐ熱心なクリスチャンです。富士山麓に養老院を建てられ、自らもここに住んでおられました。私が訪問した時は、九十四歳の高齢であられましたが、お元気でいろいろ有益なお話をして下さいました。窓一面に美しい富士の勇姿が眺められるのに、部屋の中には大小数々の富士の写真が飾ってありました。信水氏は、眼前に雀える富士を見つめながら、

「私は若い頃、甲府から河口湖まで歩いたことがあります。道がだんだん山道となり高くなってくると、遥か北方の空に嶺々に雪をいただいた日本アルプスの連山の勇姿が見えてきました。青空または雲の中に高さを競う峨々(かが)たる様は、誠にナポレオン、シーザー等の英雄の姿を彷彿(ほうふつ)とさせます。ところがその長い山道が、河口湖を遥かに望む峠

に出た時に突如として眼の前に霊峰富士がその崇高な姿を現わしました。ただただ尊い神々しいその姿に頭が下がるーばかりでした。これ誠に主の姿であり感激の涙で伏し拝むばかりでした」翁が感激に声を震わせながら語った言葉が、今だに耳()に響いています。

これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである 

末日聖徒イエス・キリスト教会新潟支部に高橋澄江姉妹という熱心な信仰生活を続けている姉妹がいます。彼女が以前東京北支部に集っていた頃、先祖の救いの系図の仕事をする系図委員をしていたことがあります。伝道部の系図の担当をしていた関係から、親しく話をする機会を持ち、彼女を知ることができました。彼女は何事にも控えめで、謙遜で辛抱強く、不言実行の方でした。 

一九七四年二月のある寒い日に、彼女は体の不自由な人が電車から降りるのを手伝っていた時、自分が誤って線路に落ちてしまい片足を電車の車輪に切断されてしまいました。意識を失い救急車で病院に運ばれ、急報に驚いて駆けつけた兄弟姉妹に見守られながら意識を取りもどした時に、「私は本当に幸せ者です。主が生きておられることをはっきりと知りました」と言う感謝と強い証の言葉が、まっさきに彼女の口から出て来たそうです。 

私はこの話を聞いて、主に捧げるべき三つの宝をすべて困った人や悩める人に与え、最後に人の犠牲になって倒れた四人目の博士アルタバンにささやかれた、「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイニ十五章四十節)の言葉を彼女にささやき、彼女はこれを聞かれたのではなかろうかと思いました。不自由な人を助けるために、尊い自分の血を流して、主に従って自分の十字架を背負ったのでした。 

彼女の深い愛と犠牲が点じた火は、今までばらばらであった新潟支部の会員の気持をひとつに結束させ、炎々として燃え上がらせたのでした。憂欝病で床に就いていた私の娘もこの話を聞いた途端にはね起きて、せっせと家事を手伝うようになったのです。 

その後、伝道部大会が横浜で開かれた時、彼女はぜひ出席したいと願望し、新潟支部の兄弟姉妹に助けられながら、横浜に来て一晩わが家にも泊まって行かれました。彼女の尊い犠牲の義足を見つめ、主が「足に平和の福音をはき」と言われたその尊い人の姿を今眼の前に見せられ、感激の涙を禁じ得なかったのです。 

大会を終えられて、無事に新潟におられた彼女から一通の手紙が届きました。 

「渡部家の皆さまありがとうございました。暖かく迎え、もてなして下さいましたこと心より感謝致しております。 

不自由な体で大会に行くことは皆さまにご迷惑をおかけするのではないかと恐れておりました。でも大会に行って本当に良かったと思います。新たな勇気と希望を得ることができました。皆さまの強い霊に触れ私の霊も証も強くなったような気がします。私が大会に出席できた陰には多くの方々の愛がありました。 

大丈夫行けますと励まして下さった人、祈って下さった人、往復二十四時間も運転し続けて下さった人、同じ車でなにかと気をつかって下さった人、暖かくもてなして下さった人、会場まで連れて行って下さった人、洋服を作って下さった人、そして初めは反対していましたが、快く送り出してくれた家族、この他たくさんの人々の愛によって大会に行くことができました。大会に出席してこんなに多くの人の愛を感じたのは、初めてです。私にとって貴重な経験でした。どんな経験でも無駄なことはないのですね。なにか得ることができます。この経験を通してあらためて教会員の素晴らしさ、私自身教会を知っていて良かったと心から感じています。御家族の皆さまが健康で幸せでありますよう祈っています」 

翌年の五月十七日、素晴らしい神権者山口卓夫兄弟と東京第三ワードで神によって一体に結ばれました。

 

永遠の生命

「永遠の生命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ十七章三節)

「見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。」(モーセ一章三十九節)

横浜支部で熱心に信仰生活を続けている笹目晴代という姉妹がいました。彼女は全日空のスチュワーデスでした。入社試験の口頭試問の際、「この仕事は、生命の危険性もあるが大丈夫ですか」との質問に、「私は教会に行って永遠の生命を学んでおります。私たちは、この現世が終ったら来世があり永遠に神のみもとで生きて行けるのですから、私は死を恐れません。また死んだ父にも逢うことができます」と答えて、見事入社試験に合格されたそうです。そして、あらかじめお兄さんに小箱を預けて、「もし万一のことがあったら、この箱をお棺に入れて下さい」と頼んであったそうです。

一九七一年六月三十日、訓練中の自衛隊ジェット機が、岩手県の上空で全日空のジェット旅客機と接触し、両機とも墜落し全日空の乗員、乗客全員、百六十名余りが一瞬にして霊界に取り去られた事故がありました。不幸にもその中にスチュワーデスの笹目晴代さんも含まれていました。不思議にも彼女は、笹の葉の上に静かに横たわってさながら生きているかのようであったそうです。八千メートル上空から落ちて五体満足に生けるままの姿をとどめていたのは彼女だけだったそうです。神のみもとに帰って永遠の生命を受けた姿が、そこにありありと見られたそうです。この奇跡は新聞でも報道されました。

事故の前日すでにこのような出来事がありました。同じ信仰の友が、夢の中で彼女が飛行機事故に遭い命を落とすのを見、気になった友は仕事中、時間を割いて羽田空港に行きました。ちょうど、彼女は飛行機に乗るところでしたが会うことができ、夢の話をすると、「実は今日は私の勤務じゃないの。同僚に頼まれ代わりに行くのよ。あなたの御心配はありがたいけれど、私たちは教会でキリストを学び、永遠の生命を知っているわ。たとえ事故で死んだとしても、神のみもとに帰るのですし、それに死んだお父さんにも逢えるし、決して心配していないわ。もし同僚に今、事故が起こって死んだら可愛そうよ。だってまだ福音を知らないから困るでしょう。そんな事故があるんだとしたら、むしろ私が行ったほうが良いのよ」と行って勤務に着いたそうです。

主は、「人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ十五章十三節)と言われましたが、笹目姉妹はそれを身をもって実行されたのでした。

かねてから、彼女の願いであった小箱をお棺に入れる前に開けてみたら、小さな聖書と彼女の写真が一枚入っていました。その写真は大きく引き伸ばされ霊前に飾られました。教会での告別式に多くの自衛隊隊員やスチュワーデスも参列され、黒い縁の額に納められた優しい愛の彼女の顔は、さながら生けるような眼差しで参列している同僚たちを見つめていました。そしてそのすすり泣く声は、永遠に生きる彼女の愛と信仰に目覚めさせられ、何人かの同僚がその後福音を学び教会に集い信仰の道に入られました。そのひとりがある時このように証しました。

「私が教会に入る前は、飛行機がエアーポケットに入ったり台風に遭遇した時、とても怖かったのですが、今はそのような時にも不思議になんの動揺も感じません。きっと主の平安が私の心に入ったからでしょう」主は、「わたしのもとに来る者には、わたしの平安をあげよう」と呼んでおられます。

ある親しい会員の弟さんは、東大に学ぶ秀才でしたが、突然自殺してしまいました。たったひとりの弟を失った彼の悲しみも大きかったのですが、それにも増して、遠い青森から駆けつけた御両親の嘆き悲しむ様は、ほんとうに端に見る目も堪えられませんでした。二十数年間も手塩にかけて育て、将来を期待されていただけに、病で倒れたならいざ知らず自ら尊い生命を絶ったとあっては、御両親の胸は張り裂けるばかりであったでしょう。私は彼から両親を慰め力づけて欲しいと頼まれ、葬儀に列席しましたが、お棺に取りすがって泣き崩れて離れない母親を見て、どのように慰め元気づけてよいのか何の言葉もなく途方に暮れるばかりでした。火葬場には、故人の遺書により友人知人は剛謝絶されました。しかし、私に哀願するような目差しで霊枢車に乗って行かれた彼の意をくみ後から火葬場に行きました。

息子さんが火葬にされている間、咽び泣く母親はそのかたわらを離れようとしませんでした。静かに近寄って、伝道のためいつも懐に持っていた「幸福の探究」(万博の時モルモン館で上映された)のパンフレットを取り出して、親子が神のみもとで親しく結ばれている来世の写真を見せながら、「お母さん、息子さんは決していなくなってしまったのではありませんよ。一足先に神様のみもとに行かれたのです。私たちは皆いつかは死にますが、皆復活して来世でまたひとつに結ばれるのです。この写真のように、また息子さんとお逢いになる時が必ず来るのですよ」とじっと写真を見つめていた母親の目に何か光が差したようでした。泣き崩れていた顔にだんだんと希望の正気が漂って来て、やがて彼女の唇が動きました。「この写真をいただけますか。息子の分まで、長生きして世の人のために奉仕しましょう」

来世の写真を手に、永遠の生命に触れた母親は強い堅い決意を浮かべて、火葬場から出て行かれたのでした。

 

宣教師の母

終戦後日本人としての確信を失った私は、主の光に触れ、末日聖徒イエス・キリスト教会仙台伝道所の最初の会員となった頃、宣教師の世話をしておられた高橋ちよのと言うおばさんがいました。彼女は御主人が戦死され、遣わされた二人の娘さんを育てるために、宣教師の世話をされていました。もしも娘さん達がいなかったなら、立派な将校

としてお国のために散って行った御主人の後を追っていたそうです。また、かつての敵国であった人々の世話など思いもよらなかったそうです。そのためか、宣教師をわが子のように可愛がる彼女も福音には耳を傾けようとは決してしませんでした。でも主が言われた、「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との教えは彼女は身をもって実行していました。その献身的な愛と奉仕の姿は、純情な宣教師の眼に映らないはずはなく、任期が終り去る、また転任になって新しく入って来る数多くの宣教師が、「おばさん、おばさん」「ママさん、ママさん」と慕い、端で見る眼も麗しく人々の胸を打ったのです。彼女が真心を込めて作る料理は、格別に美味しく得意のシチューの味はどこでも味わえない独特なものでした。 

愛と奉仕に生きる彼女の心に同じ愛と奉仕を説く福音がキリストの愛が受け入れられないはずはありません。キリストの愛はすべてを新しく変えてゆきます。パウロ自身それを体験して、主にあって新しく生まれ変った自分をしばしば証しました。 

数年後、今まで日夜、主の僕と共に生活しながらも(がん)として福音を聞こうとされなかった彼女の心に変化が起り、その心が開かれていったのです。やがてパブテスマを受け、神の子として生まれ変わり按手礼によって聖霊を与えられ、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員となりました。そして名実共に仙台支部の母親として宣教師や会員、求道者たち、すべての人に心から慕われ感謝されてきたのです。彼女を会員たちは、「おば姉妹」と呼んだのです。 

その後、若い兄弟姉妹たちと共に第四回のハワイ神殿訪問に参加し、主の宮居神殿において霊界の御主人と永遠に結ばれ、また横浜の私のところまで祝福師の祝福を受けに来られました。末日聖徒として受けるすべての儀式を受けられて、あとはただただ二人の娘さんたちの改宗を祈りつつ、忠実に信仰生活を続けて来たのです。また、おば姉妹は誠に謙遜と感謝の権化でした。私から祝福を受けられてより毎正月、塩引きの鮭を送って下さり、「私が生きている限り続けます」と。ある年郵便事情が悪く配達が少し滞ってしまっていたのですが、彼女は大変気にかけられ電話で尋ねてこられました。そのあと無事受け取った私は、すぐ御礼の電話をしたところ、よそへ郵送したのも遅れて痛んでいたと知らされたのでしょうか、「悪くなった物を送って申し訳なかった」と涙ながらにあやまられました。私は返す言葉もありませんでした。 

しかし、二、三年前から健康がすぐれず時々床に就かれるようになられました。ある時、教会で最も親密にしておられた塩姉妹の手を握って、「私に万一の事があったら、まっさきに飛んで来て、私に神殿衣を着せ、すべてこの教会の方式により儀式を執り行い葬って下さい」と遺言されたそうです。遣わされる肉親、娘さんたちが教会の会員でないため、おば姉妹はこの切なる願いを主によって結ばれた真の心からなる塩姉妹に託されたのです。 

終戦後三十年を迎えようとするこの一九七四年四月三十日、私は、突然のおば姉妹の計報に接したのでした。遺言通り塩姉妹は飛行機で仙台から奈良(おば姉妹は、一カ月ほど前に娘さんの仕事の関係で奈良に越されたのです)へ飛び一切のお世話をされ、言うまでもなく葬儀も、大阪ステーク第三ワード、平川監督を中心に兄弟姉妹が一体となって滞りなくすべて執り行われたのです。 

長年宣教師の母として彼らの面倒を見られたため、いまは彼女を知らない若い宣教師たちですが、多数の葬儀に参列し火葬場にまで皆来て、遺体が火葬されている間共にその前で賛美歌を歌いました。「神よまた逢うまで」の歌が終った時、娘さんが、「もっと歌って下さい。母の好きだった『恐れず来れ、聖徒』をお願いします」と頼まれました..続いて「高きに栄えて」、「われら天にまた会うとき」等、聖徒たちの心をひとつにして歌う美しい声に送られて、おば姉妹は安らかに昇天されました。 

上の娘さんは熱心な仏教徒、下の娘さんは敬慶なカトリックの信者ですが、私たちの教会の会員たちの示した愛の実践に心からの感謝の涙を流され、すべて教会の儀式に(のつ)とり執行した葬儀に深く感謝され、その後宣教師について福音を学び始められたと聞いています。このように教会の会員を通じて、現実に主の愛を感じられた娘さんたちが母親の切なる祈りに応えて主の許に来、天上の両親と永遠に一体と結ばれる日のやがて訪れることは明らかなことです。 

主に愛されたヨハネは、「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」(第一ヨハネ四章十六節)と言っています。先に述べた真珠湾攻撃の隊長を改宗したアメリカの看護婦さん、かっての夫の仇であったアメリカの宣教師に改宗されたおば姉妹、共に神の愛が宿ったからこそ改宗し、また改宗されたのでした。私たちは、ここで再び天使モロナイの愛についての教訓を思い起そうではありませんか。 

「悔い改めの最初の実はバプテスマである。バプテスマは信仰によって行われ、戒めを守ることである。そして、戒めを守ることは罪の赦しを生じ、罪の赦しは柔和で心のへりくだった状態を生じ、柔和で心のへりくだった状態であれば聖霊の訪れがある。この慰め主は、希望と完全な愛を人の心に満たされる。そしてこの愛は、熱心に祈ることによって、すべての聖徒が神とともに住む終わりの日が来るまで続くのである。」(モロナイ八章二十五、二十六節

「慈愛は長く堪え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。したがって、わたしの愛する同胞よ、もしあなたがたに慈愛がなければ、あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶えることがないからである。したがって、最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。すべてのものは必ず絶えてしまうからである。しかし、この慈愛はキリストの純粋な愛であって、とこしえに続く。そして、終りの日にこの慈愛を持っていると認められる人は、幸いである。したがって、わたしの愛する同胞よ、あなたがたは、御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように、また神の子となれるように、熱意を込めて御父に祈りなさい。また、御子が御自身を現されるときに、わたしたちはありのままの御姿の御子にまみえるので、御子に似た者となれるように、またわたしたちがこの希望を持てるように、さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう、熱意を込めて御父に祈りなさい。」(モロナイ七章四十五〜四十八節)

聖地沖縄

神は新大陸アメリカの地に神の王国、主の教会を回復するにあたり、血を以てその地を浄めた。現代の啓示をまと踊めた聖典、教義と聖約には次のように記されています。 

「それゆえ、どんな人であっても、一人の人がほかの人に束縛されるということは正しくない。この目的のために、わたしはこの国の憲法を制定する賢人たちを立てて、彼らの手によってその憲法を制定し、流血によって国を騰ったのである。」(教義と聖約百一章七十九、八十節)

リンカーンは、ゲーテスバークの演説でこの国を浄めた尊い犠牲者の血を空しくしないように強調しています。また沖縄は、二十万の同胞の血を以て蹟われた聖地であり、この教会の沖縄の会員は非常に信仰深く、特に死者の救いの儀式にかかせない系図の探究に非常な関心を示しています。

十年近く何度も沖縄の会員から、系図の指導に来てほしいと頼まれていました。パスポートまで取って準備していましたが、いつも都合がつかず行けませんでした。非常に残念でしたが、きっと沖縄が返還になってから行けるようになるだろうと思っていました。案の定、一九七二年沖縄が返還され、その秋に待望の沖縄訪問の夢が実現しました。そして私の願いと沖縄に住む生ける子孫と共に尊い犠牲となった先祖の霊たちの願いが、晴れて日本に戻った時に(かな)えられ、私を呼んで来れたことをはっきりと知ったのです。

沖縄の会員たちは、三日間にわたって系図会、神権特別集会、ファイヤーサイドなどの集会を計画し、開いて下さいました。御霊に包まれながらもなごやかな中に無事、三日間の集会を終らせ、私は愛する兄弟たちの案内で壮烈を極めた激戦の跡を見せてもらいました。自分自身も参加した第二次世界大戦の中で、民間人を含めた最も悲壮な肉弾ほうふつ相撃つ生々しい姿を眼前に、彷彿として見せられたのです。

何千何万とこれからの人生を持った少年少女が、尊い犠牲の血を流して散っていった健児の塔、ひめゆりの塔で私は涙を禁じえませんでした。今咲き出でんとするつぼみのままで祖国のために散って行った健児、ひめゆりの英魂も今静かにここに眠って、聖地沖縄を守っているのです。

学者によって発見された東洋一の鍾乳洞、玉泉洞(ぎょくせんどう)に案内されて入った時、納骨堂に入ったような感じがしました。頭上に下がる一本一本の柱が、尊い犠牲者の英霊に見えてなりませんでした。玉泉洞は延々ニキロも続いており、その真ん中を清流が流れています。清流を渡る時、その水面に手に持った手投げ弾で自決し、紅に染まって流れていった大和撫子の姿を見ました。

玉泉洞の入口の岩陰に立て籠った人たちの遺骨が、散在しているのを見、また上陸した米軍が穴から出るように説得した時、奥へ奥へと入り込んで昇天していった英霊が、この度学者を導いてここを発見させたのでしょう。案内してくれた兄弟に、許されるのなら一晩ここで祈りを捧げたいと申し出ました。

その尊い犠牲の血を流した多くの同胞が、今霊界にあってこの聖地沖縄に主の教会が回復され、死者の救いの儀式が進められているのをきっと喜んで見ておられるのです。そして、私たちがその尊い死者の救いのみ業を為すのを待ち望んでおられるのです。

主は、たしかに生ける者と死せる者の救いのために十字架にかかられたのです。パウロは、「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。なぜなら、キリストは死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」(ローマ十四章八、九節)

先祖探究系図指導の重責を無事果たして家に戻った私は、健児の塔とひめゆりの塔に刻まれた忘れられない二首のと叱和歌にあやかって自分も二首詠み、沖縄の教会員たちに送りました。

健児の塔の和歌

よどみなく

ふるいはげみし

健児塔の

赤き血しおぞ 空をそめける

 

ひめゆりの塔の和歌

いわまくら かたくもあらん やすらかに

ねむれとそ祈る まなびの友は

 

自 作

あがないの 主にあやかりし 犠牲者の

血に聖められし 摩文仁ケ丘

犠牲者の 血にあがなわれし 沖縄の

先祖訪ねん 我生きのびて

主のみわざに血を流す

末日聖徒イエス・キリスト教会では、かって教会堂の建設は会員自らの奉仕の手によってなされました。信仰深い会員の血と汗と涙によって立派な建物が、日本にも北海道から沖縄にいたるまでの各地で建てられられました。(現在建築宣教師の奉仕プログラムは実施されていません)

これは一九六五年横浜支部建築中に信仰強く、常に先頭に立ってこの聖業に献身している二人の兄弟を突然襲った事故。私たちにはその深い御心を推し量ることもできませんが、ただ、この堪え難き試練の中にあり、この二人の兄弟が盤石の信仰をもって、いかに雄々しく堪え忍んできたか、報告させていただきます。

毎週火曜日と金曜日の夜は、支部の建築の日と定めて扶助協会はじめ長老定員会も第一週と第三週の定例集会を建築の日として、この奉仕活動に参加していました。また七月、八月は学生たちも夏休みを利用して建築キャンプを実行、各地の支部から活発な兄弟たちが、泊まり込みで灼熱肌を焼く炎天下に玉なす汗を拭きながら、ハンマーの音を大空高くこだまさせていました。特に支部長会は率先して模範を示し、現場にはかいがいしい斎藤支部長、遠藤、岡本両副支部長の姿が、十名近くの建築宣教師の姿と共にいつも見られ兄弟姉妹の励ましとなっていました。

八月二十四日火曜日、今夜も横浜支部は建築の夕べで六時半から八時半まで兄弟姉妹が、白楽の丘の上の建築現場に楽しく集う夜でした。私は家庭集会に出席したため少し遅れ、急ぎ足で建築現場まで来ると、東京中央支部から建築キャンプに来ていた園田兄弟が、入口の近くで沈んだ顔をしていました。「もう始まっているのでしょう」と呼びかけに小さな声で、「岡本兄弟と浅間兄弟が怪我をされました」との答え。見ればコンクリートで固められた鉄筋の胴体は、気味悪くひっそりと鎮まりかえっています。驚きと共に、そのことの次第を聞けば、この夜も岡本亮兄弟は時間前から来られて仕事を始めていたそうです。まもなく、いつも兄弟たちの模範として活動している浅間兄弟もそのたくましい姿を現され、聖業にいそしむ信仰の兄弟二人が喜びの手を握り合ったその瞬間、誰知ろう床に穴があいていて二人諸共に、四メートル下のコンクリートに叩きつけられたそうです。

「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。」(ヘブル十二章⊥ハ節)居合わせた建築宣教師たちと共に、取るものも取りあえず病院に駆けつけたところ、二人は手術台の上で手当てを受けておりました。浅間兄弟はコンクリートに腰をひどく打ったため腰の骨を傷め、苦痛に身動きができず手術台の上にうつ伏せになっていましたが、大きな外傷はなく意識は確かでした。岡本兄弟は、頭部、顔面及び左腕をコンクリートに叩けつうえこうがいこつれっしょうけられたため、左腕骨折、頭蓋骨にひびが入り上口蓋骨裂傷、顎のつけねの骨が砕け、眼鏡をかけていたため眼の上、鼻の上、霧など顔面に数・所の傷を負い・思わず顔を背けたくなるような状態でした。しかし、意識はしっかりしていて、想像もつかない苦痛の中からも力のある声ではっきりと医者に答えていました。医者の了解を得て、まず斎藤兄弟が両兄弟に灌油の儀式を執行し、ポキパラ長老と私がそれを結び固めました。

二人の兄弟、特に岡本兄弟の怪我は想像した以上にひどく、病院では応急処置をしただけで二人とも救急車で妙蓮寺にあるサマリタン病院に移されました。岡本兄弟の出血は甚だしく、絶えず口から鮮血が流れ出ているばかりでなまみく、時々ドーッとボールに何杯となく吐き出していました。そのため、シーツや私たちのシャツまで鮮血に塗れてしまいました。その真赤な血は、主が十字架にかかった時の血を私に連想させました。

「その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦き杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」(教義と聖約十九章十八節)

一言も苦痛を訴えるような声を出さない兄弟たちに、「えらいなあ」と感嘆の声を発しますと、「何もえらくないよ」と、岡本兄弟が返答されたのには驚きました。

岡本兄弟の顔面は、はれ上がり色が青ざめて来ました。医者から重体であることを告げられました。斎藤支部長は、高松におられる御両親に電報を打ち、立ち合っている警察官も直ちに警察電話で連絡をとって下さいました。何人かの兄弟たちは、進んで輸血のために残りました。仕事のため遠方にあって電話で励まして下さっていた田中地方部長も駆けつけ、柏倉副地方部長も看護婦の経験を持つ柏倉姉妹を連れて駆けつけてくれ、私たちはこれこそ天の助けだと安心しました。斎藤支部長夫妻と共に何人かの会員が、夜を徹して看護しました。遠く青森の弘前大学から、夏休みを利用して建築キャンプに来ていた仙台支部の新田兄弟に支部長が、「疲れるといけないから少し休みなさい」と言うと、「私は看護させていただきたい」と遂に一睡もせずに岡本兄弟の口より流れ出る血を拭き取っていました。浅間兄弟は自分の傷と痛みをも顧みず岡本兄弟のことを案じ、浅間姉妹も御主人の世話ばかりでなく、岡本兄弟の看寧第四章並とともに護まで手伝われたのです。

次の日の夕方、伝道本部からの帰りに病院に寄ると、岡本兄弟のお母さんと叔母さん一家が高松から駆けつけて来ておりました。一日会社を休んでいろいろお世話をしていた田中地方部長は、お母さんと話をして、「病院の支払いはすべて教会の方で見させていただきます」と申し出たのですが、「いいえ、息子の不注意で御迷惑をかけたのですから」と申し出を遠慮されました。お母さんは、「息子の一命だけ取り留めて下さるよう神様に祈りながら来ましたが、皆様のお陰で助かりました。こんな嬉しいことはありません」と涙を流されていました。 

サマリタン病院でも手術が困難なため横浜市大病院に移されました。重体で面会謝絶が続いていたため、案じながらも見舞できず、手術の予定日が知らされたので私たちは断食して祈りました。

九月十二口、東中央地方部の大会が西支部で開かれ、教会堂の前の芝生で大勢の兄弟姉妹の中に家族を伴ったあのたくましい浅間兄弟の姿を見出し、驚喜して走りよったところ、「岡本兄弟も、もう起きているそうですよ。手術の結果がよくて」と聞き、その時の嬉しさ、目頭が熱くなり涙を禁じえませんでした。驚いたことに岡本兄弟は、事故後一カ月足らずでギブスを顔につけてはいましたが、安息日に教会に出席し私たちと共に礼拝行事に出られました。その後まもなく、支部建設に戻ってきましたので私たちが止めますと、「いや、僕の体はもう復活体だから.一度と死ぬことはありませんよ」と笑いながら働き始めるその姿は、全く神の子のように尊く自然に頭が下がるのでした。

岡本兄弟の場合、普通の人がこれだけの重傷を負ったらまず助からなかったそうですが、信仰により神権によって癒され、浅間兄弟も奇跡的に急速に快癒(かいゆ)しました。この度の事故で非常に証を強められたとかえって感謝し、ますます信仰生活に精進しておられます。

かって田中地方部長と丸山第一副地方部長が、中央支部の石油コンロで火傷を負って共に渋谷病院で枕をならべて寝ておられたことがありましたが、今はお二人ひとつとなって地方部を背負って立っておられます。

主は、「試練に堪えた者の中から指導者を選ぶ」と教えられましたが、今度の主の御業の試練に堪え、証を強められた岡本、浅間両兄弟の将来の御活躍が期待されます。

「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ一章十二節)

(この記事は約三十年前に書いたものです。岡本亮兄弟は岡山伝道部長を経て、名古屋・大阪地区の地区代表、JMTC伝道部長にも召されました。浅間玄也兄弟は横浜ステークの副ステーク会長を経て、横浜ステークのステーク会長に召され、その後地区代表に召され活躍されました)

心眼の師武蔵野博兄弟

「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイ五章八節)末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道部が、日本に再開されて問もない一九四八年にバプテスマを受け、一年足らずで大神権を授けられた武蔵野兄弟は、その当時から横浜支部の素晴らしい教師をされていました。また、クラスで多くの会員、求道者を導いて来られました。みたまに満たされたその言葉は、聞く人の心に深い感動を与え、信仰の火を点し、すべての人が強い証をもって立ち上がらずにはおられなくなります。 

パウロは、「世と世のものを見るな」と言われたが、目の不自由な彼は、私たちのように世のものを見て惑わされることがないためでしょうか、その心はただ福音にのみ充たされ、その心眼はただ主を見つめておられるようです。主は常に彼と共にあられ、主は彼の口を通して語られるのです。「私がこうして主の御言葉を宣べさせていただけるのも、兄弟姉妹の助けによるのです」と謙遜に言われます。 

日曜学校で「福音の紹介」のクラスの先生に召されていた時は、教科書を読めない彼のためにあらかじめ星留美子姉妹がレッスンの内容をテープに吹き込み、それを彼が点字にして自分のテキストを作られるのです。その一字一字を自らの手で突き綴られるために、レッスンは教科書の一言一句も漏らさぬほどの完壁さです。不自由なく教科書を読める目明き教師は、彼のクラスに出席すると、冷汗をかき強く反省させられます。星姉妹は、レッスンの中も黒板に書いたり、プリントを配ったり、彼の手足となって働いておられます。彼女自身素晴らしい教師ですが、こうして陰の力として奉仕しているため、彼のレッスンがさらに一段と輝きを増しています。 

武蔵野兄弟のためにパート・タイム宣教師の大岡良子姉妹は、毎日曜日教会の始まる前、または終った後に「聖徒の道」を読んでいます。同様に当時第一副支部長の斎藤勉兄弟は教義と聖約をテープに吹き込んでいます。高校時代に将来の社会奉仕のためにと点字を習得された細野照子姉妹は、賛美歌を点字に訳し始め、すでに二百番を越え完成されました。これらの兄弟姉妹の篤い信仰による奉仕と贈物を、彼はどんなに喜んでおられることでしょうか。盲学校で習得された医術を以て、現在鶴見に武蔵野針灸療院を開設して、病める人を癒やしながら生活しておられますが、教会の会員には特に奉仕的に治療されているようです。治療室の書棚には、膨大な点字書となった何十巻という新旧両約聖書が重々しく並べられています。このみたまに満たされた部屋で神の言葉を以て人の心を癒やし、その手を以て病を癒やす尊い武蔵野兄弟の姿こそ、大いなる主の僕、真のモルモンの伝道師ではないでしょうか。武蔵野兄弟はこう証しています。 

「私は四、五歳頃、食物の好き嫌いがもとで眼を患い、右眼を失明、左眼は0・〇四という弱視になり眼鏡が役立たず、小学校では教室の一番前の机に座らせてもらったにもかかわらず黒板の字を判読するのに苦労しました。 

でも、どうやら学校を卒業し、ある工場の仕上工として勤めることになりました。しかし、薄暗い室内で危険な機械を扱う仕事は私には無理で、足の指一本を怪我で落としたのを機会にやめてしまいました。それから、いろいろな仕事をしてみましたがうまくゆかず・髪たあげく英語の勉強とラジオの修理技術を身につけるように沫心し努力しました。

私が日米文化学院でこの教室の宣教師アンドラス長老、レイモンド・プライス長老に逢ったのはその頃です。当時私は、「自分は何のためにこの世に生まれて、また何のために生きているのか」ということで悩んでいたので、さっそくこの教えを聞くようになり、一九四八年十二月にバプテスマを受けました。その後、私は宣教師を助け活発に働きました。

そして、失明という状態に陥りました。この様な時にこそ神の福音が必要でしたが、聖書も読めず、懸命に思い出そうとしても聖句の断片が思い浮かぶぐらいで、今まで自分なりに理解していたと思い込んでいた主の教えに対する理解の程度が不充分であったことを知らされました。

ただはっきりしていたことは、ジョセブ・スミスが神の預言者であり、モルモン書を初め、その他の標準聖典が神の言葉として書かれ、こ.の教会が真の神の教会であるということだけでした。

盲人のお定まりコースである、「針」、「灸」、「マッサージ」の業を修得すべく盲学校に入り教会とも聖典とも離れ、信仰が弱まってしまっていた時にも、「この教会は真の教会である」という証だけは、現在のその強さとは異なるものの決して失いはしませんでした。

針の技術を習いに行ったところの先生が大変熱心なクリスチャンで、針の技術を教えるかたわら福音を語っておられました。私も含め多くの盲人がその教えを受けておりました。私は、その先生より信仰上よい影響を受けました。しかし、神に近づく方法は、末日聖徒イエス・キリスト教会以外にないことを知っていた私の信仰は、その尊敬する先生との間を離してしまいました。毎週教会に行くのは経済的に大変でしたが、ある年の正月から針灸療院を日曜日は休院とし、什分の一も正しく収めるようにしました。そして妻が、一九六二年三月にバプテスマを受けました。毎週日曜日に教会に集うことも、妻がバプテスマを受けることも私にとって長い間の希望でした。しかし、私には誰の、手も借りることなく自分ひとりで教会への往復ができないという大きな悩みがありました。朝の早い神権会や夜のファイヤーサイドには、妻子の負担になるため出席できません。私は、これを自分自身の手で解決しようと決心しました。その方法はただひとつ、失明以来やろうとしても怖くてできなかった、交通機関をも含めてのひとり歩きです。

私はバスと東横線を利用する教会までの約一時間の道程をひとりで行く方法を考えました。昨年八月に二人目の子供が誕生し、妻の仕事が増え、妻の付き添いでバスに乗ることが困難になりました。必然的に私は、ひとりで行かない限り教会には行けなくなってしまいました。そんな状態になる日が来るだろうと予測はしておりました。

いよいよ私の計画を実行に移す日が来ました。その朝、家を出る前に主に無事を祈り、近くの停留所まで妻に送ってもらい、初めてバスにひとりで乗りました。全身、不安のため震えました。胸の高まりも幾分静まった頃、バスは綱島駅に着きました。切符を買いプラットホームまでの第二難関を越え電車に乗りました。白楽駅から教会までの第三難関を足を引きずるようにして一歩一歩慎重に、目の飛び出しそうな緊張感を覚えながら歩きました。

そうして教会に着いた時には、うれし涙が込み上げてきました。早速、神に感謝の祈りを捧げました。帰りはさらに難しいコースでしたが、無事家に帰ることができました。その後、十カ月間綱島駅が工事中のため、時折バスの停留所が変り戸惑ったり、ドブに足を入れたりしたこともありましたが、毎週日曜日には教会に集いました。現在は家内を始め多くの兄弟姉妹の協力を得ていますが、いつでもひとりで教会への往復ができるという自信がついたため、神権会にもファイヤーサイドにも出られるようになりました。

今年三月三十一日の安息日より、姉妹に助けられて「福音の紹介」のクラスを教える責任をいただきました。これは、私にとって失明以来どうしても越えることのできなかった大きな壁でした。しかし、ひとり歩きを信仰で克服したように、この召しも努力と信仰によって果たせるという確信があります。この召しは、大いなる神の祝福であり、私の信仰生活における貴重な体験と進歩です。きっと、神が私の進歩のために与えたもうた試練でありましょう。

多くの兄弟姉妹の中には、信仰生活を続けていく上でいろいろな困難や越えられそうにもない壁に突きあたり、困惑している人もあるのではないかと推測します。しかし、それを乗り越えることがその人の進歩にとって必要なことであるならば、神は必ずそれを解決する方法を備えて下さっています。ひとりでは難しいことかもしれません。そのような時には、兄弟姉妹の力を借りてみてください。主は、『互いに愛せよ』と言われた心もそこにあると思います。

私たちの教会には、比類ない組織と神によって、愛によってつながれた素晴らしい兄弟姉妹がいるのです。神が生きておられ、私たち人類の幸福のためにこの計画を備えて下さったこと、イエスが我々の救い主であり生きておられること、聖霊が常に私たちを導かれること、ジョセブ・スミスが預言者であり末日聖徒イエス・キリスト教会がキリストの真の教会であること、そしてデビッド・O・マッケイ大管長が現在の生ける預言者であること、これらすべてを心より証いたします。

(三十九年前、一九六〇年に日記に書き綴ったものです)

目明きは不自由だ

「この人が生まれつき盲人なのは、……ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである。」(ヨハネ九章二、三節

八王子支部の岸野支部長に依頼され聖餐会で話をするために、早朝家を出て八王子に向かいました。横浜から八王子まで二百二十円、ちょうど手持ちの小銭がそれだけあり自動販売機で切符を買ったら二十円戻って来たので改札口で訳を言って二十円を渡し電車に乗り、八王子で降りて、「はっ」としました。新しい八王子支部の場所を知らなかったのです。支部長に「チラシの地図を下さい」と頼んだところ、「車で迎えに行きますから駅に着いたら電話をして下さい」と言われていました。財布には十円玉も百円玉もない、千円札をどこかで崩さなければと考えながら陸橋の階段を上り終えた時、人込みの中に懐かしい盲人の顔が現われました。とっさに名前を思い出せず、「兄弟」と大声で呼び、近寄ったところ即座に、 

「渡部兄弟」と私の手を強く握り、嬉しそうに顔をほころばせ、「今日は、ほんとうは出勤でしたが、渡部兄弟の話を聞きたかったので、神権会だけでもと思って意気込んで来ました。あなたのことばかり考えていたのですぐ分かりました」と、私を喜ばせてくれました。私は彼(下地兄弟)から小銭が借りられるのではないかと安心して、

「実は支部長が着いたら電話をして下さい。すぐに迎えに行くと言ってくれているので、今電話しますから」少しためらいがちに言うと、 

「私は毎日曜日に歩いて通っているので案内します」と私の手を取りました。目明きが盲人に導かれるとは、正に自分のことだなと感謝しつつ従いました。すっかり嬉しくなって話に夢中になっていると、突然、彼は私の腕を引いて立ち止まりました。 

「赤信号ではありませんか」見上げれば果たして赤信号の交差点に危うく足を踏み出そうとしていました。 

「車の流れの音で判るんですよ」私は全く頭が下がってしまいました。信仰一筋に生きている下地彬兄弟には、その名前のようにすべてが明らかであり、私たちのように雑念の曇りもないのでしょう。私は、その時やはりその名前のように清く生きている大阪の盲人の伊藤清兄弟のことを思い出しました。 

仙台の支部長に召されていた時、教会堂の建築資金をつくるため、盲人ピアニストの伊藤兄弟と同じく盲人歌手の平沼兄弟を大阪から招いて、仙台の公会堂で音楽会を開催したことがありました。お二人の好意と献身的な奉仕により大成功を納め、その翌日、支部において慰労も込めてクリスマス・パーティーを開きました。私の家族が、「モルモン書」の劇を発表し、伊藤兄弟は伴奏をしてくれました。その劇の最中、停電になり真暗になった舞台の上ですくんでいた私たちや会員の耳に・美しい旋律が天の一角から流れ出るように依然として、暗闇の中を響き渡って行きました。一同は今さらのように彼の真価を知り感激して、思わず万雷の拍手を贈りました。かの盲人学者塙保巳一が、

「目明きは不自由だのう」と言った言葉を思い出しました。

パーティーの翌日、安息日の聖餐会で彼は素晴らしい証をしました。 

「私は幼い時から、神様はなぜ私を盲人にしたのであろうかと恨むような気持で、世を(ひが)んで成長しました。ある時、電車の中で宣教師にやさしく言葉をかけられ教会を訪ねましたが、私はやはり僻んだ気持で神様などいないと反発していました。宣教師はどこまでもやさしく、『あなたは目が見えない代わりに、何か他の人の持っていない才能を神様から与えられているはずですよ」と言われました。私は、音楽が好きでしたので勧められるままに教会のピアノを弾き始めたところ、不思議なことに宣教師と一緒に福音を勉強し、福音がだんだんと理解されるにつれてピアノを弾く手が独りでに動くようになり、いつのまにか『乙女の祈り』等をテレビに出演して弾くようになっていました。 

私は今、音楽で生活の糧を得ています。私の音楽が私の信仰の±台に立脚していることをよく知っています。ですから私は、信仰の強い姉妹を妻に迎えたいと願っています。もし、私が信仰の弱い姉妹と一緒になったら、私の信仰も弱くなり、また私の音楽の腕も落ちてしまうからです」 

伊藤兄弟はその後まもなく大神権を受けられ、同時に素晴らしい姉妹と結ばれ幸福なモルモンの家庭をつくられました。また大阪ステークで指導者として活躍されました。

還暦の祝い

数年来、還暦の祝(一九七四年六月六日)には富士登山をしようと計画していました。一九七四年、年頭早々に去だいぼさつ年の秋、ともに大菩薩(おぼつか)峠に登った横浜ワードの内田姉妹が協力を申し出てくれましたので、計画を彼女に依頼しました。山新田兄弟が山中湖畔にある会社の寮を今から予約すれば、宿泊できると言ってくれました。このように準備は着々と進められました。ところが五月二十六日、信仰生活七十年の鈴木ナミ姉妹が九十四歳で昇天され、ホーム・ティーチャーであった私はそれを聞いたとたんに腰が抜けたようになり、辛うじて立っていられるような状態で、歩行も困難になってしまいました。この様子では、富士登山は断念しなければならないと思いました。浅間兄弟から灌油の儀式を受け一週間程して、痛みも取れどうやら歩ける状態に戻りました。これでは富士登山は覚東ないのではないかと思われましたが、幸いにもどんどんよくなって行きました。 

還暦祝の富士登山には当初二十五名の参加申込みがありましたが、健康状態に自信のない人も出て最終的に二十名となりました。一行の最年少者の浅間兄弟の息子さんの大介君が当時十歳で私との年齢差は五十年、昔でいえば一人生です。 

年頭に記録的な晴天続きの異常乾燥のためか、七月半ばになっても連日雨で長い梅雨は一向に晴れようとはせず、そのため計画は順延となって行きました。参加者の予定と照らし合わせ、最終的に出席は七月二十二日と定めました。 

二十一日の安息日、長く天を閉ざしていた暗雲がどこへともなく消え去り、太陽が澄みきった青空に顔を出しました。大地に膝まついて感謝の祈りをし、また教会で同行の兄弟姉妹と共に手を取りあって喜びましたものの、翌日にはまた暗雲が現れ、いよいよ出発間際、私たちが新宿の高速ターミナルに集合した時には雨さえ降り出してきました。 

雨天決行を決意していた私たち一行を乗せ、バスは午後七時、暗黒の中を富士山目指して出発しました。数時間後、富士急ハイランドを疾駆、富士の裾野を上り始めた頃、突然、室内灯を消したバスの運転手が「富十は晴れです。皆さん窓を見て下さい。星です」と叫びました。 

「おお」私たちは歓声を上げました。美しい黄金の星が満天にまたたいていました。十時半、バスは予定通り五合目に到着。バスから降りると、いまだかって見たこともなかった無数の星が満天を覆い、まるで宝石をちりばめたようにきらきらと輝いて私たちを聖てくれました。誠にその表現がぴったりの天の川。北斗七星、子熊座、下界では見られぬこの無限の星の難アブラハムが主の御手に成る聖を見せられ、コロブ、ココブ()を見た時もこのような空ではなかったかと思いながら、喜び勇み、空を仰ぎ見ながら六合目へと向かいました。 

二十三日の午前二時頃七合目五勺辺りまで来た時、気温が急激に低下、風さえ強まり皆震兄だし、止むを得ず山小屋に休息。山頂はこのシーズンにしては未曾有の零下十何度にまで下がりました。 

午前三時半出発、東方の空がかすかに白みかけてきました。大介君は不眠がたたったのか身体の不調を訴え、浅間兄弟と下山して行きました。八合目に入った時、東方の空が赤く焼けて御来光が近づきました。 

姉妹たちの荷物は、山岳部で鍛えた瀧姉妹と内田姉妹を除いて皆兄弟たちが分散して持ちました。私も伊藤姉妹の荷を始めに担ぎ、また山新田兄弟は婚約者の分と三根兄弟の荷を自分の荷に重ねて登りました。⊥口同所と寒さとに疲労した私たちが頂上に近づいた時、前を行く内田姉妹が倒れそうになっているのを見ました。疲労困態の自分に鞭打ち、その荷を引き取ろうと乳ラフラしながら近づいた時、すでに山頂に辿りついて荷を置いた松浦兄弟が下りてきて危急を救ってくれました。 

眼下に展開される大パノラマ、遥か空の彼方に浮かぶ連山、雲海の切れ間に見える大草原、その中に静かに眠る鏡のような山中湖。雲の一点がピカリと光ると朝日が顔を出し始めました。日の丸!太陽が昇る時、「君が代」、続いて平和の戦士、「イスラエルのつわもの」の歌が口をついて出ました。キリストの愛、人類愛に脱皮進展したかつての愛国行進曲の替え歌を歌いました。 

見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の清気溌刺と 希望は踊る大八州(やしま)

一、おお晴朗の朝雲に そびゆる富士の姿こそ 永遠不滅の生命なる 我が主イエスの光なれ 

行け八紘を(いえ)となし 四海の人を導きて 正しき平和打ち立てん 理想は花と咲き薫る 

二、起て蹟いの救い主生命と永遠にいただきて神の子我ら皆共に 光にそわむ大使命 

ああ幽遠神代より轟く歩調受け継ぎて大行進の行く彼方王国常に栄えあれ

三、今幾度か我が上に 試練の嵐猛るとも 断固と守れその正義 進まむ道は一つのみ 

山新田兄弟は感激してこの歌詞を書き綴って、「帰りまでに皆覚えて合唱しよう」そして、「神殿に入ったようだ!」と叫びました。正に聖なる山の頂ヒは神殿でした。皆が私の還暦を祝って胴上げをしてくれ、その時私は赤い帽子をかぶりました。 

突然、「渡部兄弟結婚します」と呼ぶ声。一同振り返れば、遥か上方に見える岩の上に仲よく座っている二人。私たちはしばし唖然としましたが、「おめでとう、おめでとう」の歓声。照れ臭そうに降りて来た二人を皆が囲みました。私は、「姉妹の素晴らしい信仰を十年も前から知っています。このような信仰深い姉妹に、主が素晴らしい神権者を用意しておられることをはっきりと知っていました。彼女はソルトレークの神殿を訪問した時、『将来日本に生まれる日本人の祝福師から祝福を受けます』と言って祝福を受けずに帰国しました。そして、私が祝福師に召されると十一番目に私のところへ来てくれました。私は確信を持って素晴らしい神権者と結ばれることを祝福させていただ

匪たが今それが成就しました。おめでとう」と。 

その兄弟はたちまち、愛に溢れた兄弟たちに取り囲まれて空中高く放り上げられました。次に山新田兄弟が捕まり空中高く放り上げられました。彼は、ホームティーチャーとして自分の担当姉妹の妹さんを改宗し、婚約して今の最愛のフィアンセと共にこの聖なる山に登っていたのです。 

天上における天使のように私たちは、時の経つのも忘れて声高らかに賛美の歌を歌い続けました。 

突然、バタンと三根兄弟が倒れました。驚いた兄弟たちは、仰向けにして衣服を緩めマッサージを始めました。私は、肌身離さず持っていた灌油の儀式に用いる聖なる油の瓶を取り出し、山新田兄弟に注いでもらい私が結び固めました。一同は、かたずをのんで三根兄弟を見守りました。一秒、二秒、ピクピクと眉が痙攣(けいれん)したと思ったら彼は眼をかっと見開きがばっと起き上がりました。思わず私は、「主はその人を立ちあがらせて下さる。」(ヤコブ五章十五節)と叫びました。「ああ気持いい。どこに行っていたのだろう、私の心は平安に充たされた」誠にこの富士山頂に主は私たちと共にあったのです。「ホザナ、ホザナ」主を賛美し、感謝の涙に咽んだのでした。 

降り道で私が靴を脱いで砂を出していると、同行させてくれと近づいて来た米兵が私の荷を背負ってくれたので私は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ十一章二十八節)と主がその手を拡げている写真入りのチラシを差し上げ、もう一枚のチラシは、頂上に登る途中で新潟から来た家族登山者たちに差し上げました。 

無事、頂上のお鉢めぐりも終えて下山した私たち一行はその夜、山中湖の三愛荘に一泊して疲れを休めました。そこでの証会で三根兄弟は、上りが難しく下りが容易であったことを私たちの生涯にたとえて証しました。 

誠に神々しい富士山は主の姿のようであり、この富士登山の貴重な経験を通して主はささやいておられます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイニ十四章十三節)

イスラエルの散乱と日本民族 

私たち日本人はその字の如く、日の牌の国の民として「日の丸」の旗を掲揚し、国歌「君が代」を歌うのを伝統としています。またクリスチャンは、イースターにサンライズ・サービスで昇る太陽を拝し、主を賛えます。これは日本人がイスラエル民族であることを現わしています。国歌「君が代」は、正にイスラエルの神の王国の賛歌であります。 

君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔むすまでここで歌われている、「さざれ石の、巌となりて」は、預言者ダニエルが解き明かしたネブカデネザルの夢の、「一つの石が人手によらず切出され……大きな山となって全地に満ちました」を意味し、これはまぎれもなく末日における神の王国の発展を示すものです。 

預言者イザヤはイザヤ書の中で、「それゆえ、東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。」(イザヤニ十四章十五節)と言っていますが、英語版のキング・ジェームス訳では、「Glory Ye the Lord in the Fires」と東が火(太陽)になっています。

日本は聖徳太子が言ったように、東方太陽の出ずる国です。このイザヤの言っている聖句が、日本を指していることと喚起させます。青森県の戸来村(ヘラィムラ)にはキリストの墓があります。戸来(ヘライ)とはヘブライから来た言葉だそうですが、これも日本民族がイスラエルであると思えるもののひとつです。

日本の家長制度は、古代イスラエルの族長制度と同一です。世界をひとつに結ぼうとする国際連合の旗は、かんらんの葉がデザインされ一本の幹に結ばれています。これは、末日におけるイスラエルの集合を表わしています。聖書にかんらんの葉が出て来るのは、ノアの箱船から放たれた平和の象徴である鳩がくわえてきて陸の現れたことを告げた時です。この国際連合が世界平和、イスラエル集合の象徴として用いたかんらんの木はモルモン書にもはっきりと記されています。ニーファイは次のように言っています。

「まことに父は、異邦人とイスラエルの家について多くの話をし、イスラエルの家は、枝が折られて地の全面に散らされる、一本のオリーブの木にたとえられると語った。したがって父が言うには、地の全面に散るという主の言葉が成就するために、わたしたちは1つとなって約束の地へ導かれる必要がある。そして、イスラエルの家は散らされ

てから、再び集められる。要するに、異邦人が完全な福音を受け入れてから、オリーブの木の自然の枝、すなわちイスラエルの家の残りの者たちは接ぎ木される。すなわち、彼らの主であり贈い主であるまことのメシヤを知るようになる。」(第一ニーファイ十章十二〜十四節)

私たち日本民族をさらにはっきり指摘しているのが、二ーファイ第二書にあるヨセフの言葉です。

「すなわち、ヨセフはまことにわたしたちの時代を見た。そしてヨセフは、主なる神がイスラエルの家のために、ヨセフの腰から出た者の中から一本の義にかなった枝を起されるという、主の約束を受けた。その枝というのはメシヤではなく、折り取られる一本の枝のことである。この枝は、折り取られるにもかかわらず、主の聖約の中で思い起こされる。その聖約とは、彼らを暗闇と束縛から自由へ連れ出すために、メシヤが力の霊によって末日にその御姿を彼らに現されるというものである。」(第二ニーファイ三章五節)復活後アメリカ大陸を訪れた主が言っておられます。

「まことに、まことに、あなたがたに言う。わたしには、この地におらず、エルサレムの地にもおらず、またわたしがこれまでに行って教え導いた周囲の地のどこにもいない他の羊がいる。わたしの言うその羊は、まだ私の声を聞いたことがなく、またわたしも彼らに自分自身を現したことはない。しかし、わたしは彼らのところへ行って、彼らがわたしの声を聞いて、わたしの羊の中に数えられるようにし、一つの群れ、一人の羊飼いとなるようにすることを、父から命じられた。だから、わたしは行って彼らにわたし自身を現す。」(第三ニーファイ十六章一〜三節)

さらにはニーファイ第二書で、失われた十支族の記録が出て来ることが予言されています。

「それゆえ、聖書を持っているからといって、わたしの言葉がすべてそこに含まれていると思ってはならない。また、わたしがもっと大切なことを書き記させなかったと思ってもならない。わたしは、東の地、西の地、北の地、南の地、また海の島々にいるすべての者に、わたしの語る言葉を書き記すように命じるからである。わたしは書き記される数々の書によって、世のあらゆる人を、書き記されていることに従い、彼らの行いに応じて裁く。見よ、わたしがユダヤ人に語れば、彼らはそれを書き記し、ニーファイ人に語れば、彼らはそれを書き記す。また、わたしが連れ出したイスラエルの家のほかの部族に語れば、彼らもそれを書き記す。さらにわたしが地のすべての国民に語れば、彼らはそれを書き記す。そしてユダヤ人はニーファイ人の言葉を得て、ニーファイ人はユダヤ人の言葉を得る。また、ニーファイ人とユダヤ人は、イスラエルの行方の知れない部族の言葉を得て、イスラエルの行方の知れない部族は、二ーファイ人とユダヤ人の言葉を得る。

そして、イスラエルの家に属するわたしの民は、彼らの所有する地に集め戻され、わたしの言葉も1つに集められる。こうして、わたしが神であることと、わたしがアブラハムに彼の子孫をとこしえに覚えると聖約を立てたことと、わたしの言葉とイスラエルの家に属するわたしの民に逆らって戦う者たちに示そう。」(第二ニーファイニ十九章十〜十四節)

サムエルはイスラエルの長老たちが王を立ててくれと迫った時、主に祈って次のように答えられました。「今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない。」(サムエル上八章九節)

イスメラエルの1支族である日本民族が万世一系の天皇を継承して来たのは、ダビデの次の遺訓によります。

「我直系の子孫にあらざれば王位を継承するを得ず。王位は万世に亘り一系たるべし」

千年以上にわたって都であった京都は平安京と呼ばれましたが、歴代志上には次のように記されています。

彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。彼はわが名のために家を建てるであろう。(歴代上二十二章九、十節)

「そしてわたしはわが民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにしよう。」(歴代上十七章九節)

平安京京都では、毎年七月十七日に祇園祭(ぎおんまつり)が盛大に行われますが、ユダヤ人はノアの箱船がアララテ山にとどまった七月十七日(創世紀八章四節参照)を記念してシオン祭を行います。

ある日のバプテスマ

霊峰富士が遥かに霞、太平洋のさざ波が足元にささやく松の緑の丘に、幾人かの聖徒たちが天から降り立ったような白衣の姉妹と兄弟を囲んで集まっていました。「心に光りあり主はわが光…」賛美歌が静かに流れ渡り、(こずえ)の小鳥がこれに和してさえず町、平和の鳩が青空に舞い上がりました。夕日は今や太洋の彼方に没せんとし、万物は寂として金色の輝きを放っています。兄弟が口を開いて、「今あなたは、信仰によって神の王国に入らんとしております。あなたは今日神の僕として生まれ変わる者です。おめでとうございます。聖句に、「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。」(ヨハネ黙示録三章五節)とありますが、あの富士山を見て下さい、あなたと同じように白い衣に輝いて永遠に立っています。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ十章二十二節)あなたは、今後いかなる苦難に遭おうとも常に今日の日を思い起こし、あの富士と同じようにあなたの身に霊に永遠の白い衣をまとっていることを忘れず、よき僕として神の王国の建設に励んで下さい」姉妹の口もとから静かな、しかし力ある声が響きました。 

「私は神が生き給い、主が生き給うことを知りました。神を求めながらも、素直に神を知ることのできなかった自分がいかに傲慢(ごうまん)であったかを心から悔い改めました。私の胸は喜びと感激でいっぱいです。これから皆さんと共に一生懸命励みたいと思っております」 

二つの白衣が波の中に静かに入って行き、兄弟は眼を閉じて手を挙げました。一瞬、万物は神と共にこの二人を見守り、姉妹の頬に宝石のような涙が光りました。 

「下の方で閉会しましょう」

制服に着替えた姉妹が丘の上から駆け降りようとした瞬間、石につまずき倒れてしまいました。兄弟があわてて駆け登り助け起し、 

「靴下が破れただけで体に傷はありません」

「これからもあなたの道はこのように険しいでしょう。けれども、あなたがその身と霊に今日の白い衣をまとっている限り、このように守られるでしょう」

「主は生けりと知る…」賛美歌は流れます。夕日はすでに沈んで、白いさざ波が聖徒たちの足下を静かに洗っていました。

私の改宗

私の改宗には二つの動機があります。それは、第二次世界大戦前と終戦後とに分けられます。外地に生まれ、幼少の頃より学生時代までを異民族の間に育ち学んだ私に取り、どうしたら異民族と心から結び合うことができるかということが大きな課題でした。 

学生時代、ロシア人の家に下宿していたので、彼らの教会や学校へよく連れて行かれたものでしたが、ある時一緒に日露戦争の映画を見た後、数日間お互いに話をしなくなったことがありました。また北京に留学していた時、中国の学生と共に中日学生修養会という会を組織して、日支親善の実をあげようと努めました。しかし、私たちが教育された八紘一宇の精神は、彼らにはどうしても理解してもらえず、この二つの異なった民族を真に結合する中心思想を見い出すことが一九四一年、東京の外務省に戻っての私の目標でした。 

終戦の前年、私も応召し一兵卒として戦いの庭に立ち、そして敗戦、多くの戦友が戦場の露と化して行きました。彼らは何のために尊い生命をなくしたのであろうか、彼らは死んでどうなったのでしょうか。また生ける屍である我々は、今後何を目標に生きて行くでしょうか。数年間、私は暗黒の中にさまよい、その間戦友の亡霊が常に、私に呼びかけているような気がしていました。 

外務省に奉職していた関係から終戦後はユネスコ、国際連合協会などにも関係し、この方面で自分の課題である民族協和の理想を追い求めて行こうとしました。しかし、多くの同胞の死による精神的打撃を受けた私には、そのような文化的、政治的運動に熱意がわかず、心はもっと本質的なもの、永遠なものを求めていました。この求める私に神は、主の僕を遣わして下さいました。 

忘れもしない一九四九年九月、私は自分の教えていたひとりの生徒からその日初めて仙台に着任したオールドハム長老と赤木長老を紹介され、勧められるままに仙台で開かれた最初の日曜学校に出席しました。与えられたパンフレット、「ジョセフ・スミスの見神録」は、私の心の中に新しい火を灯しました。心に光が差し込んできました。私が半生をかけて求めていた、世界の民をひとつに結ぶ中心思想がこの光の中にあるような気がしました。私の部屋の壁には、万国旗に彩られたかんらんの葉が世界を覆っている国連のポスターが貼ってあり、それを何時も眺めていました。ある朝、枕元に開かれたモルモン書の中の一節が目に飛び込んできました。 

「まことに父は、異邦人とイスラエルの家について多くの話をし、イスラエルの家は、枝が折られて地の全面に散らされる、一本のオリーブの木にたとえられると語った。したがって父が言うには、地の全面に散るという主の言葉が成就するために、わたしたちは一つとなって約束の地へ導かれる必要がある。そして、イスラエルの家は散らされてから、再び集められる。要するに、異邦人が完全な福音を受け入れてから、オリーブの木の自然の枝、すなわちイスラエルの家の残りの者たちは接ぎ木される。すなわち、彼らの主であり順い主であるまことのメシヤを知るようになる。」(第一ニファイ十章十二〜十四節)

私は愕然としました。私を救い、世界の民をひとつに結ばれる蹟い主が枕元に来て立たれたような気がしました。一九四九年十一月六日、主の安息日に私は広瀬川の清流において生まれ変わりました。

「さて、わたしの親愛なる兄弟姉妹たち、わたしはあなたがたに断言します。これらは死者と生者に関する原則であり、わたしたちの救いに関して軽々しく見過ごすことのできないものです。彼らの救いはわたしたちの救いにとって必要であり、不可欠だからです。それは、パウロが先祖について、わたしたちなしには彼らが完全な者とされることはないと言っているように、わたしたちの死者なしには、わたしたちも完全な者とされることはないのです。」(教義と聖約百二十八章十五節)

贖いの主によって多くの同胞も、先祖も、生き残った我々も共に救われることを知った時、私はただ主よ主よと、感謝の涙にむせぶばかりでした。

一九五八年四月十五日、伝道部系図委員会会長の重責に按手任命された日の日記に、アンドラス伝道部長さんは私の頭上に按手され、『あなたがこの国の死者のために働けるよう按手任命します』と言われました。ああ私が終戦後絶えず求めていた道、逝きし同胞が、亡き父が私を呼んでいたのだ。そして慈愛の神はその大きな御手を以て私を伴われたのだ。主に見守れながらシオン山の救い手として死せる同胞のために、聖なる主のみわざのお手伝いをさせていただけるのだと思うと、私はいまだかって覚えたことのない生の歓喜と責任感に身ぶるいするのを止めることがわができなかった」と記されてあります。

家族の永遠の結び固め

私たち家族も一九六八年八月九日、ソルトレーク神殿において当時十二使徒会長、後に第十↓代大管長となられたハロルド・B・リー長老の手によって永遠に結び固められました。前から親しくしていたブリガム・ヤング大学のハイヤー教授夫妻も証人として出席して下さいました。十二使徒会長に儀式を執行していただけるなど例外なことですが、なぜこのような恩恵に浴したのかには、こんな経緯があります。 

長女聖子は私が改宗した翌年、一九五〇年の春、生まれました。一九五三年リー長老夫婦が来日され、仙台での地方部大会に出席された時のことです。三歳になったばかりの聖子が午前の一般大会の開会のお祈りをしました。リー長老は大変感激され、私は呼ばれてリー長老の側で今の祈りの通訳をし、その後、そのままリー姉妹の横に座っていた聖子の隣に座りました。二時間も続く大会は始まったばかり、三歳の聖子にそれだけの長い時間耐えられるはずはありません。案の定もじもじし始め、私がひやひやしているとリー姉妹がハンドバックより静かにキャンディーを出して聖子に下さいました。おとなしくそれを食べ終えた聖子が、またもじもじ始めますともうひとつ出して下さり、とうとうキャンディーでは治まらなくなった時、一枚の紙片と鉛筆を渡されました。聖子は、それに一生懸命にお人形さんの絵を書いていました。こうして一般大会は、無事に閉会となりました。私たち父娘はリー姉妹に救われ、母親のようなその暖かい愛に感謝したのです。 

午後からの証会では、六歳と九歳、十二歳の息子たちが皆強い証をし、再びリー長老は感激され、夜の米軍人たちの集会でこのことにふれ、この小さな日本人の子供たちが祈りかつ証できるのは、聖霊の力によるのであると強く証されました。 

翌日、リー夫妻を仙台駅まで見送りに行き、列車の中に入って行くと、すでに着席しておられたリー姉妹がポケットから昨日の聖子が壇ヒで人形の絵を描いた紙片を取り出し、「これはあなたのお嬢さんが描いた人形です。私は記念臨「にこれをいただいて行きます」とにっこりされるのです。私は胸が熱くなり、目の前が霞んでくるのをどうすることもできませんでした。 

それから十五年の歳月が流れ、十八歳となった聖子とこうして再会し、三歳のお嬢さんがこんなになられたのかと驚き喜んで下さいました。後に大管長となられた時にお祝の手紙を差し上げましたら、丁寧な返事をいただきました。その中には次のように記されていました。 

「私はあなた方のおかげでこの重責に召されたのですから、どうぞ今後ともよろしくお願いします。あなたも大切な召しを受けておられるのですから、体を大切にして忠実にその責任を果たして下さい。主が常にあなたと共にあってあなたを祝福されますように」

家族の永遠の結び固め

私たち家族も一九六八年八月九日、ソルトレーク神殿において当時十二使徒会長、後に第十↓代大管長となられたハロルド・B・リー長老の手によって永遠に結び固められました。前から親しくしていたブリガム・ヤング大学のハイヤー教授夫妻も証人として出席して下さいました。十二使徒会長に儀式を執行していただけるなど例外なことですが、なぜこのような恩恵に浴したのかには、こんな経緯があります。 

長女聖子は私が改宗した翌年、一九五〇年の春、生まれました。一九五三年リー長老夫婦が来日され、仙台での地方部大会に出席された時のことです。三歳になったばかりの聖子が午前の一般大会の開会のお祈りをしました。リー長老は大変感激され、私は呼ばれてリー長老の側で今の祈りの通訳をし、その後、そのままリー姉妹の横に座っていた聖子の隣に座りました。二時間も続く大会は始まったばかり、三歳の聖子にそれだけの長い時間耐えられるはずはありません。案の定もじもじし始め、私がひやひやしているとリー姉妹がハンドバックより静かにキャンディーを出して聖子に下さいました。おとなしくそれを食べ終えた聖子が、またもじもじ始めますともうひとつ出して下さり、とうとうキャンディーでは治まらなくなった時、一枚の紙片と鉛筆を渡されました。聖子は、それに一生懸命にお人形さんの絵を書いていました。こうして一般大会は、無事に閉会となりました。私たち父娘はリー姉妹に救われ、母親のようなその暖かい愛に感謝したのです。 

午後からの証会では、六歳と九歳、十二歳の息子たちが皆強い証をし、再びリー長老は感激され、夜の米軍人たちの集会でこのことにふれ、この小さな日本人の子供たちが祈りかつ証できるのは、聖霊の力によるのであると強く証されました。 

翌日、リー夫妻を仙台駅まで見送りに行き、列車の中に入って行くと、すでに着席しておられたリー姉妹がポケットから昨日の聖子が壇ヒで人形の絵を描いた紙片を取り出し、「これはあなたのお嬢さんが描いた人形です。私は記念臨「にこれをいただいて行きます」とにっこりされるのです。私は胸が熱くなり、目の前が霞んでくるのをどうすることもできませんでした。 

それから十五年の歳月が流れ、十八歳となった聖子とこうして再会し、三歳のお嬢さんがこんなになられたのかと驚き喜んで下さいました。後に大管長となられた時にお祝の手紙を差し上げましたら、丁寧な返事をいただきました。その中には次のように記されていました。 

「私はあなた方のおかげでこの重責に召されたのですから、どうぞ今後ともよろしくお願いします。あなたも大切な召しを受けておられるのですから、体を大切にして忠実にその責任を果たして下さい。主が常にあなたと共にあってあなたを祝福されますように」

息子たちを伝道に出して

改宗して一年余りした時、幸せにも日本伝道部で最初の日本人宣教師に召されましたが、私は外務省に奉職していて自分の将来について野望があったことと、すでに三人の息子があり家族の生活保証がなかったことを理由に断り、その千載一遇の機会を自ら逸してしまいました。あとで、非常に後悔しましたが、会員宣教師として生涯精進し、息子たちが年齢に達したら皆伝道に出そうと決心しました。恵まれて、長男正尚は教会の大学、ブリガム・ヤング大学を卒業し一九六三年から六五年まで、次男正二はブリガム・ヤング在学中に二年間、一九六五年から六七年まで、それぞれ日本で伝道しました。三男正和もやはりブリガム・ヤング大学在学中の一九六八年から七一まで、ブラジルで伝道しました。四男正末は、アロン神権の教師の職の時に来日された当時十二使徒定員会会長、後に大管長となられたスペンサー・W・キンボール長老より三百円の伝道資金をいただき、それを元手に銀行口座を開き、高校に入学してから毎朝五時に起きて新聞配達をし月々もらう三万円近くの報酬を伝道資金として貯金しました。そして、ブリガム・ヤング大学在学中、一九七八年から八十年まで、九州で伝道しました。

息子たちを伝道に出して強く感じたことは、息子たちが我が子というより御父の子、主の直接の僕であるということです。主の使者、立派な宣教師として、今まで我が子としては感じなかった威厳に尊敬の念を覚え、彼らの父として養育の責任を与えられて来たことを大きな祝福として、今さらのように感謝したのでした。また、彼らも教会の指導者のひとりとして責任ある地位にいる私を今までと異なった目で見、父親としてだけでなく、教会の権威ある者として尊敬の念を以て迎えてくれました。 

彼らが地方の支部長をしている時に、地方部評議員として廻って行くと大変喜んでくれ、日曜学校や聖餐会で話をする機会を与えてくれました。私たちも息子たちのお陰で、支部の会員の一人一人に対してより一層深い愛と親しさを持つことができました。 

三男は、大学在学中に伝道に出るべきかどうか非常に迷い、ある日神殿で主に尋ね求め、霊感され、聖典の教義と聖約を開いたところ、第十五章、主がジョン・ホイットマーを召した時の言葉、

「聴きなさい、わたしの僕ジョンよ。あなたの主であり、あなたの贈い主であるイエス・キリストの言葉に耳を傾けなさい。見よ、わたしはあなたに、はっきりと力強く語る。わたしの腕は全地のうえにあるからである。……あなたは自分にとって最も価値のあることを知るために、何度もわたしに願ったからである。見よ、あなたはこのことのゆえに、またわたしがあなたに与えた言葉をわたしの命じたとおりに語ったので、幸いである。さて見よ、わたしはあなたに言う。あなたにとって最も価値のあることは、この民に悔い改めを告げて人々をわたしのもとに導き、わたしの父の王国で彼らとともに安息を得られるようにすることである。アーメン。」が、目に入り、「伝道に出るべきだ」と感じましたが、まだ満足できず、さらに次の第十六章を読むと、主がピーター・ホイットマーを召した時に与えられたまったく同↓の言葉が、繰り返えされていました。今、目の前に立たれた主に直接命ぜられたように愕然とした息子は、その場で決心し、すぐ召され、そのあと二年半ブラジルで伝道しました。ブラジルに召された初めての日本人だったため、日本人支部の設立に力を尽くし、多くの日本人、またブラジル人にも愛され、新しい言語、ポルトガル語も修得し、素晴らしい経験と共に再びブリガム・ヤング大学に戻ることができました。 

息子がブラジルで伝道したため、何人かの日系ブラジル人が故国を訪れた際、わざわざ私の家まで訪ねて来て泊って下さり、「是非一度ブラジルに来て下さい。日系人の多くが、正和さんのような立派な宣教師の御両親に来てもらって、お話してもらいたいと言っています。皆でお待ちしていますから、ぜひいらして下さい」と言って、私たちを喜ばせてくれました。 

また、私が祝福師に召されて一九七二年の春の総大会に出席した時も、ブラジルから多くの会員が見え、息子はソルトレーク神殿のブラジル人のセッションを彼らと共に受け、多くのブラジル人が息子の周りに集まり本当に嬉しそうに語り合っていました。私にはチンプンカンプンで何もわかりませんでしたが、中には涙を流して感謝している人もいて、このような宣教師としての息子を持ったことを深く感謝しました。 

ハワイ神殿の近くのハウラに住んでいる長男の妻、フェイスの両親大川夫婦は、四人の娘さんと一人の息子さんを全部日本に伝道に出され、皆それぞれの家庭を持たれた今日、夫婦として伝道に出れるよう願い出られたそうです。私たちもそのようになりたいと望んでいる次第です。 

主は、昇天される前にガリラヤの山上で十一人の弟子にまみえて言われました。

「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ、見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイニ十八章十九、二十節

大川夫婦はその後、沖縄、九州、柳井で伝道され、東京神殿で宣教師として働かれました。

モルモン教と真言密教

モルモン書の日本語翻訳を最初に手伝った英語学者、高橋五郎氏は次のように言っています。「モルモン書と真言密教は非常に似ている。両者はどちらもその経典を天使から授けられたところに共通した特長がある」 

私はある系図雑誌の↓項目、くるす紋(クロス、すなわち十字架紋のことで久留子紋と書く)について読んでいた時、興味ある記事を発見しました。だいたいこの十字架紋は、天文十八年七月二十二日(一五四九年八月十五日)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、伝道の結果洗礼を授けると共に十字架紋(久留子紋)をつけるよう勧められてできたものです。サビエルの最初の上陸地が鹿児島であったため、島津家の家紋である十字架がザビエルによる十字架紋であると見られてきていました。 

ところが島津家の家伝は、十字紋の使用を始祖豊後守忠久の時にあてています。なお、蒙古襲来絵巻には島津下野守久隆の十字紋の旗が立派に描かれておりキリスト教伝来以前およそ三百年も前のことです。この事実は、先の島津家家紋をキリスト教の十字架紋なりとする想像の当たらないことを証明しているようです。また、エリザベス・ゴードン女史は、研究の結果次のように発表しています。 

「東洋に最初のキリスト教が伝来したのは、ネストリア派にしてそれは唐代のことである。日本の高僧空海はちょえかあじやりうどこの頃入唐している。のみならず、師の恵果阿闇梨を通じてネストリア僧侶にも接していたと言われている。従って十字架の日本伝来は、この唐代の時と思えるし、日本における十字紋の紋章は、空海の手を経て日本に伝えられたものと推せられる」 

これで私が以前から、空海が中国でキリスト教を学び自分の教えの中に取り入れていたと言う推測に信葱性がでてきました。その「真言」という文字自体聖書にも、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ一章一〜十四節)と続いています。さらに、教義と誓約九十三章八節には、「それゆえ、初めに言葉があった。彼は言葉、すなわち救いの使者であり…」と書かれています。主イエスは言葉です。そうすれば真言は真にイエスであるとも言えましょう。おもしろいことに、空海がつくった「いろは歌」を次のように並べると主イエスが秘せられていることが判ります。 

いろはにほへと

ちりぬるをわが

よたれそつねな

らむうゐのおく

やまけふこえて

あさきゆめみし

ゑひもせ  す 

七番目の文字をつなぎ合わせると、とがなくして死すとなります。またやあゑもエホバの古語です。イエス(いえす)と結んで「い」から「え」までが三十三年のキリストの生涯と三十四年目の死を、「え」から「す」までの十二の,文字は十二弟子を示しているとのことです。仮に偶然であるにせよ、言葉というものが誠に巧妙に構成されているではありませんか。空海が十字架を携えてきたと同時にイエスの名をその歌に秘し、福音を真言の教えの中に蔵して、真言密教を説いたとは考えられないでしょうか。ともあれ私はかつておもしろい経験をしたことがあります。 

仙山線の愛子(あやし)に蕃山という山があります。空海はこの山に籠ろうとしましたが、水が悪かったため高野山に行きました。今もその中腹の森の中に真言教のお寺があり、貞雪尼(てせつに)と号する年老いた尼さんが修行しておられます。私が仙山線で初めてこの尼さんに逢って教会のパンフレットを手渡しましたら大変喜ばれて、「ぜひ、イエスさまのお話を聞きたいから一度お寺に来て下さい」と言われ、北仙台でその尼さんは下車しましたが、わざわざ私の窓まで戻って来て、丁寧に見送って下さいました。その後、お寺を訪ねますと、喜び迎えた老尼は、「今まで私は東北大学や松島の卿蜘説などで、随分高僧や学者の話を聞いてきましたが、それほど胸を打たれたことはありませんでしたが、あなたのイエス様の話は不思議と私の胸を打ちます」と言い、そして、「これは誰にも見せたことのない神から授かった秘宝です」と言って、空気を吸って生きているという白い玉のようなものを見せて下さいました。 

磯原の皇祖大神宮を訪ねた時も、御神体である神石をマイクロフィルムに収めたいので見せてもらいたいと願ったところ、竹内巨麿(おおまろ)氏はしばし黙祷していましたが、「不思議だ。あなたたちはよほど正直な人たちなのですね。今までいかなる人に頼まれてもお許しが出ず、見せたことがなかったのにあなたたちに初めて神様のお許しが出た」と驚嘆しておられました。私は、これもあの老尼の時と同様私たちの持っている神権の力によるものであろう、と今さらながらその尊い権能に感謝せずにはいられませんでした。

マホメットの系図

「そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた。女奴隷の子は肉によって生まれたのであり、自由の女の子は約束によって生まれたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を生む。ハガルがそれである。ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。」(ガラテヤ四章二十二〜二十五節

このハガルの子イシマエルが、アラビヤ人の父祖です。この血統により紀元五七〇年、マホメット教の教祖マホメットが生まれました。従って、現在世界に四億数千万を数えるマホメット教信徒たちは、アブラハムを教祖マホメットの父祖として尊び、モーセをも偉大なる預言者として、ユダヤ人が背教したのに反し自分たちは正統にその律法と戒律を守っていると主張しています。しかし、この律法についてはさらにガラテヤ書に次のように記されています。 

「信仰が現われる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。……もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」(ガラテヤ書三章二十三〜二十九節

エホバの約束した祝福がアブラハムの妻サラの子イサク、その子ヤコブすなわちイスラエルの血統に与えられたことは旧約聖書に明らかに記されています。また前掲引用の聖句にも、「自由の女の子は約束によって生まれた」とあり、さらには同じガラテヤ書にこう書かれています。 

「さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして『子孫たちとに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、キリストのことである。わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。」(ガラテヤ三章十六〜十八節

マタイ伝の冒頭に、「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」とでているが、このキリストと同じ先祖アブラハムのはしためより出たるマホメットとの相互関係がこれで明らかになったと思います。 

ともあれ彼らの信仰の熱烈なことは誠に敬服に価します。私はかつて東横線の電車の中で十二歳位のパキスタンの少年たちと語り合ったことがあります。彼らは熱心なイスラム教徒で、恒例の大祭のため代々木の回教寺院(モスク)に出かけるところでした。横浜のセント・ジョセフ学校に学んでいる彼らは巧みな英語で語り、私がモルモンだと言うとモルモン教を知っていて盛んに質問挑戦してきました。「モーセは死んだか。もし死んでいるなら今どこにいるのか。キリストがなぜ神の子なのか。キリストもモーセと同様預言者のひとりに過ぎない。しかし、マホメットは、最大で最後の預言者です」と。こんな小さな少年たちでも、このように熱心に宗教を論じさせるように育てたモスクに対し私は驚異を感じ、ユダヤ教と同様金曜の午後が恒例の礼拝時であると聞き、金曜日に機会を得て参観してみました。 

金曜日は独一創造主アラーの創造日とされています。小田急線の代々木上原駅を下り、参拝に行くらしい異国人を見かけ走り寄り尋ねてみると、案の定マホメット教徒であり、インドネシアからの留学生で親切にモスクまで案内してくれました。礼拝に先立ち、彼らは水で身体を潔めるために別館に入って行きました。 

礼拝堂は、世界中どこにあってもその正面中央が聖地メッカに向けて造られてあり、信徒は皆メッカに向かって礼拝します。偶像礼拝しないという面前には、何の対象物もありません。頭上にはターバン、または白帽をかぶり、特別な法衣を身にまとっている者もいます。祭司はトルコの国籍を持っていますが、ロシア革命の時にトルキスタンあたりから亡命してきた商人で、今も東京で何か商売を日常の業務としているそうです。絶え間なく一時間ばかり祈祷を唱えていましたが、時々礼拝者一同がこれに唱和して、立ったり座ったりします。また脆いて祈る時、その顔面すなわち額と鼻を床にすりつけるのが特長です。 

小アジア、中央アジア、特にインドネシア全般に亘って四億数千万の信徒を擁し、世界三大宗教のひとつに数えられているイスラム教の教義とはいかなるものでしょうか。それは、彼らが偉大なる預言者として信じる使徒マホメットを通じて、人類に啓示された唯一の神アラーの教え、イスラムすなわち平和と調和と好意と心に徹底した平安をもたらす教えです。具体的にいえば、朝の礼拝から夜の礼拝までの間をきちんとした生活方式で厳粛に、もろもろの戒律を守り、百パーセント有効に毎日を生きる秩序の教えです。国境や人種や貧富を超越し、アラーに対する義務奉仕を通じ同胞愛、人類愛で繋がり、相互に親身もおよばぬ敬愛さを以て結ばれる社会的な教えです。実際、彼らが集会の時にその肌の色などを超越して、共に両手で握手して親しみの情を表わしている様は、非常に私たち教会内の雰囲気に似ていました。 

礼拝(未明、昼過ぎ、日没前、日没後および夜の礼拝、この五度の礼拝の外にも随意に捧げる礼拝あり)、洗礼、断食(マホメットが一ヵ月間洞窟にこもって断食しアラーより啓示を受けた九月を断食の月として、日出より日没まで断食する)、喜捨、巡礼(聖地メッカに参拝する)。信徒はこの五行を実行し、特に最後の巡礼を終えた者はバッジという高い位に就くそうです。 

その初期においてマホメット教は、右手に剣、左手にコーラン(クルアーン経典)を構え、すなわち税金を納めせダけんるか帰依するかと迫ってアラビアより起り、たちまちにして世界を席巻し、かのサラセンの黄金の時代を築いたのですが、その後この強大な信仰を忘れ、もっぱら形式に流れたため後進的悲境に陥り、どこにもイスラム本来の姿を見ることができない状態となってしまいました。最近三十年程は、イスラム圏で展開された民族独立運動に続き、第二次世界大戦後におけるイスラム諸国の独立によって、信仰に対する覚醒と往時のような熱烈な信仰に帰らんとする努力が促され、イスラム世界復興の筋金となろうとしています。

なお、イスラムの根本信条は「カリマ」で、それは「ラーイラーハ、イッラッラーフ、ムハッマドル、ラスウルッラバ」、すなわち「アラーの他に神はなく、マホメットはアラーのみ使いである」ということを唱え、かつ行うことし・・ば・し・・です。アラーは仁愛にして慈愛深い主、完全無欠で全智全能、総界を照覧し、森羅万象を統裁する主であると信じられています。

 

紀元節問題と正しき先祖探究

日本人、または日系二世の会員で祝福師の祝福を受けた会員の多くが、マナセ、またはエフライムの血統であることを告げられたことにより、私たちは私たちの先祖も含めてイスラエルより分かれた者であることを知ることができます。 

戦前、国粋の鼓舞を建国精神の高揚に結びつけ、記紀の神話に立脚した神国日本を教えられたのですが、学問の自由が確保されると共に考古学的立場から、また正しい史実を伝える外国文献などにより再検討され、史学者、人類学うかか者、言語学者によって正しい日本の歴史の研究が着々と進められるにつれて、それがいかに曖昧なものであるか窺えるのです。 

聖書考古学の史跡発掘により、聖書が科学的に裏づけされつつある今日、アラビアの一童子が発見した「死海の書」は、現代のキリスト教界に一大センセーションを巻き起こしました。同様に戦後、村から村へ自転車を駆って、ボン献餅を売りながら遺跡踏査を続けていた青年、相沢忠洋氏が、群馬県桐生市外岩宿の赤土の崖から採集した石器は、日本の旧石器時代の研究に画期的な役割を果たしました。ただし、両者の相違点は、前者が聖文の発見により、聖典が科学的に裏づけされ、後者は石器の発見により、記紀の神話が科学的に再検討されつつあることです。今日モルモン書が、考古学界の努力により、漸次証明されつつあるのも前者の場合に相当するでしょう。 

敗戦により消滅していた紀元節が、講和条約締結後、復活すべきか否か賛否両論に分かれていろいろ論議されましたが結局建国記念日として再生しました。しかし、まだその論議は治まってはいません。神武天皇が大和を平定し、樹離讐に即位した日を紀元前六六〇年(辛酉の年)の元旦としたのは、七二〇年(養老四年)に作られた日本書記です。また、紀元節が制定されたのは、一八七四年(明治六年)三月七日の大政官布告によります。さらに、紀元節が二月十一日と定められたのは、同年十月十四日の大政官布告によります。 

古事記、日本書紀の資料の中で、最も重要な部分は、帝紀(ていき)(皇室の系図)旧辞(きゅうじ)(神話や神武天皇以後の歴史に事跡、物語)です。古事記の序文を読めば、帝紀と旧辞とは、天武天皇の時から国史の編集が始められ、その時にすでに国史のまちまちな本ができあがっていたことを知ることができます。古事記が、文字に書かれ書物となる前は、口伝で光帝の殯宮(おくりみや)(死体安置所)のような儀礼の場において、代々唱え伝えられたものであろうと推測されます。帝紀の性質が以ヒのようなものとすると、旧辞に書かれている歴代の出来事、ましてその順序などをそのまま事実と見立てることは、とうてい困難なことであるとしなければなりません。 

しかし、私たちがすでに系図の教科書で学んだハワイの伝説の例に見るように、各民族の神話、伝説なるものが全く架空のものであり、その民族の史実に結びついていないと断言することはできません。特に、外来の漢字で書かれた記紀以前の神代文字(一種の音節文字)で書かれた磯原古文書、富士古文書、九鬼古書には記紀に記されていない古神道が含まれています。また、神代文字で書かれているホツマツタエは、記紀には多くの誤りがあることがうかがえます。まず第一に、天照大神(あまてらすおおみかみ)は男神でありエホバであると主張する神道の研究者がいます。次に、日本民族はイスラエル族であり、天皇家は、ダビデの皇統を継ぐものであると理解できます。 

純粋の古神道が、旧約聖書に多くの共通点を持つことから、前述の諸古文書がモルモン書第ニニーファイニ十九章に記された失われた十支族の記録の一部であると考えられないこともありません。 

古事記は、歴史的に信悪性のある伝説であるというのが、今日の学界の通説になっていますが、これらの見方と反対に、「日本の民族誌ではないが、大和朝廷は信頼性のある立派な朝廷であり、大陸各地を転々としていた」と言っています。大田種子の意見を取りまとめると

「中国の北辺、天山山脈の最高峰カンチングリ山(七四三九メートル)の麓には、イラン系のサルト人とクラマ人が住んでおり、付近を流れるカシ川に沿った原には、タランチ人が現在でも農業に勤しんでいます。この地方の要所たるヤマトが、神武天皇が即位した土地です。倭は、即位した地名のヤマトであり、白橿原(カシハラ)は、カシ川の原のことで、神武天皇の道案内を務めたと言う猿田彦は、サルトピコ、つまりサルト人の男性がサルダピコとなったものである。 

タランチとは、中国語で農耕者のことであり、これが、日本語になってタラチネ(垂乳根)となり、古事記にある、「タラチネの水穂の国」となり、考古学的にみれば弥生文化の水稲栽培者のことで、この文化の源泉は、中国の天山山脈方面ではないかと見られるのである」 

また、大田種子の研究による日本民族移動推定図は、その年代から言えば東方に足を向けるとイスラエルの散乱に一致してきます。また、ウラルアルタイ系のツングース族の東端に位置する日本民族誌の建国時にも一致してきます。シルクロードにほとんど遺っていない貴重な小中アジア、西方アジアの品々が奈良の正倉院に多く(のこ)されていることも、それを裏づけるひとつの証拠ではないでしょうか。私たちが、私たちの系図を探究して、正しく私たちの先祖を追い求めるとき、いまだ世に知られていない何か素晴らしい民族史が展開されるのではないでしょうか。マシュー・カウリー十二使徒が、三十七年前の伝道本部の献堂式の祈りの中で言われた言葉が、再び思い起されます。「やがて日本のここ、あそこに神殿が建ち、日本人は世界の民の間にあって、義のしるしとなるであろう」

北の守り

末日聖徒イエス・キリスト教会北海道伝道部で貢献された潟沼誠二兄弟一家が日本における神の王国の北の守りとして活躍しております。また、北海道教育大学の教授としても教育界に貢献している潟沼兄弟には、信仰によって結地ばれたロマンスがあります。 

札幌の学芸大学の学生の頃、関西方面へ視察旅行に出かけ、以前小樽支部で伝道したビンガム長老を広島支部に訪ねた時のことです。彼は、素晴らしい信仰の人としてよく宣教師の口からも聞かされ称賛の的となっていた村田陽子姉妹に逢いました。この信仰強い二人がその心に触れ合ったことは当然ですが、その後東京西支部でアンドラス伝道部長司式のもとでめでたく結ばれるまでには、実に多くの困難が彼らの前に横たわっていたのです。 

当時、関西電力の副社長であった村田姉妹のお父さんは、彼女が広島のミッション系の大学を卒業されると、可愛い一人娘のためいろいろ社会的に地位のある良い縁談を持って来ましたが彼女は、「教会の会員でなければ」と固く断わり続けたため、教会への出席もなかなか容易でなかったそうです。潟沼兄弟は、彼女のお父さんの社会的地位に気兼ねしてか彼女に断りの手紙を出しましたが、彼女からは意外にも、「神権者であるあなたに結ばれることが唯一の私の進むべき道です」と言う返事が来ました。「神が合わせられたものを、人は離してはならない。」(マタイ十九章六節)この聖句こそ二人のために書かれたのではないでしょうか。 

その後も幾多の困難がありましたが、この聖句はめでたく成就して晴れの挙式となりました。席上、彼女のお父さんがアンドラス伝道部長の肩を叩いて、「とうとう娘をあなたに(教会に)とられてしまいましたよ」と笑いながら言われたその目に光るものがありました。愛する一人娘を暖かい故郷の広島から、遥か北国、吹雪荒ぶ北海道の地へ送る両親の胸中を察し、私も胸のつまる思いがしました。 

「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわゼくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」(マタイ十章一二十七、三十八節

名門村田家を後に、瀬戸内海のさざ波に別れを告曙北の海オホーツク海の逆巻く小樽へ。主を愛し彼を愛すればこそ嫁いで行く陽子姉妹の胸中は、如何ばかりであったでしょうか。おそらく彼女の胸には次のような聖句が秘められていたのではないでしょうか。 

「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。」(エペソ五章二十二、二十三節

結婚式後、披露宴が教会の日本間で行われ両家が対座されました。この世においては貧しいけれど(とこしえ)の神の王国の砦、神権の一族と、この世の富と権力を兼ねた名門の一族の対象が実に印象的でした。 

それからの潟沼兄弟の信仰はますます盤石となり教会活動も躍進し、今日の北の守り、北海道伝道部長会を背負って立つに至ったのです。誠に神は奇しきみわざをもって一歩一歩とその砦を固めていくようです。 

翌年、私は北海道の大会に出席した折、幸せな新家庭に柳沢地方部長と立ち寄る機会がありました。ちょうど、長男の潤君が生まれた時でしたので広島から、はるばるあばあちゃんも来ておられ、潟沼兄弟のお父さんと赤ん坊を抱いてとても幸福そうでした。 

その夜、北海道地方部の将来について地方部長会と共に、親しく語り合う機会を得ました。一大酪農地である北海道は、長老定員会の福祉活動に好適地であり、柳沢兄弟は、「今年中にも北海道長老定員会は独立したい」と意気込んでおられました。翌朝、駅まで見送ってくれた潟沼兄弟は、「どうぞ、これを見て下さい」と差し出された新聞。見ればたくましい若人開拓者が、果てしなきこの沃土にトラクターを走らせている。これぞこの地にシオンの種を播く潟沼兄弟の姿そのものではないでしょうか。カウリー使徒は、日本伝道本部の献堂式で、「日本のそこごこに神殿が建つ」と祈られましたが、北の守りとして将来、この北海道の地にも神殿が建てられるのではないでしょうか。この大会で、系図の仕事を通じて結ばれた素晴らしい二人、本間兄弟と清水姉妹の婚約が発表された時、私はセント・ジョージの神殿が献堂されて、まもなく永遠の結婚をされた、ピーターソン夫婦が、ついこの二、三年前に結婚八十周年のお祝をしたことを思い合わせ(第三章永遠の結婚)、また北海道地方部の将来のため心からお喜びお祝い申し上げました。 

潟沼兄弟は、日本人のモルモン指導者としてこの新天地で働かれると言っています。彼のお父さんは長い間、漁夫として生計を立て、彼も彼のお兄さん(一利兄弟)も幼い時から海で過ごしてきたそうですが、現在、教会の仕事が忙しく海に出る暇がないそうです。「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ四章十九節)と主に言われ、網を置いて従ったゼベダイの子ヤコブとヨハネではないでしょうか。

話は前後しますが、この大会の会場であった小樽市会議事堂の舞台の幕には、古代の象形文字が美しく描かれています。これは、小樽海岸の岩壁に刻まれた古代文字を写したものだそうです。この岸壁は、史跡として保存されていますが、学者は次のように訳しています。「我は部下を率いて大海を渡り、闘い、この洞窟に入る」イスラエルの散乱で東方に向かったルベン、ガド、マナセの何れかが、この北海道にも辿り着いたのではないでしょうか。 

「また、北の地にいる者たちは、主の前に覚えられるようになる。彼らの預言者たちは主の声を聞き、もはや自分自身を抑えない。そして、彼らは岩を打ち、氷が彼らの前に崩れ落ちるであろう。一つの大路が大いなる深みのただ中に設けられるであろう。彼らの敵は彼らのえじきとなるであろう。不毛の砂漠に生ける水の池が現れ、焼けた土地はもはや乾いた地ではなくなる。彼らは、わたしの僕であるエフライムの子らに貴い宝を持って来るであろう。永久の丘の境は彼らの前で揺れ動くであろう。彼らはそこで、すなわちシオンにおいてひれ伏し、主の僕たち、すなわちエフライムの子らの手により栄光を冠として与えられるであろう。そして、彼らは永遠の喜びの歌をもって満たされるであろう。」(教義と聖約百三十三章二十六〜三十三節

北の守り、北海道伝道部の将来に祝福あれ!その指導者たちの上に神の導きと守りあれ!潟沼兄弟御蒙の心から商なるお世話で無事二日間の北海道大会での大任を果たした私は、かく祈りつつ車上の人となりました。 

なお、これは一九五九年に書いた記事です。その後、潟沼兄弟は札幌ステーク会長を初代より数年来担当し、その後地区代表に召されました。そして現在、地域幹部七十人に召され活躍されています。

平和の福音の備えを足にはき(エペソ六章十五節)

今から十数年前の七月二十八日の安息日の朝、私は横浜支部で神権会の前のひととき、聖餐会での話を再度チェックしていました。息子正和の、「お父さんに電話だよ」との知らせに、急ぎ電話口に出ると山田副伝道部長からでした。 

「新潟支部の松川護兄弟が、昨夜、交通事故で足を切断してしまったので、すぐ地方部長会の一員として松川兄弟を訪ねてほしい」との内容に、すぐ支部を飛び出しましたが、九時半発の急行列車に乗り遅れてしまい、やむなく上野駅で数時間待ち、一時十五分の急行で新潟に向かいました。 

夕方六時半、新潟に着きその足で新潟支部に行き、福島、五十嵐、大橋の支部長会の兄弟たち、宣教師と共に、早速、桑名病院を訪れました。事故直後の手術の経過がよく、意識もはっきりと元気な松川兄弟の姿を見た時はほっとしました。しかし、学生時代からスポーツで鍛えた堂々たる体格に右足首の見えないのは、ほんとうに痛々しく、慰めの言葉もなく途方にくれるばかりでした。 

傷ついた夫をいたわり守る毅然としたリツ夫人を見た時、さすがは信仰に生きる姉妹、この突如と襲った試練にもよく主がこの信仰の一家を守っていて下さることを目の辺りに見て、限りなき御同情の念と共に新たな感激に胸がつまる思いでした。 

「熱心に探し、常に祈り、そして信じなさい。あなたがたがまっすぐに歩み、互いに交わした聖約を思い起こすならば、万事があなたがたの益となるようにともに働くであろう。」(教義と聖約九十章二十四節

私がほんとうに驚き感激したのは、二人がお互いに強い信仰と愛によって結ばれていることを確認し、この試練を通してこの絆がさらに強められることを知り、大きな希望を持って立ち上がれることに、二人とも今度の災禍をむしろ心から感謝しておられることでした。「禍を転じて福となす」とは誠に信仰に生きられるこの二人の特権であるようです。私は、ペテロやパウロの言葉を思い起こしました。 

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。」(第一ペテロ四章十二、十三節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(第一テサロニケ五章十六〜十八節

つねつね信仰生活にいそしむ二人がことある時に臨んで、よく現れたこの聖句さながらの姿が尊く、私たちのよき模範として深く心に刻まれたのでした。 

この度の事故には、相手側にも落度があったようですが、松川兄弟は自分の落度であると深く悔い改めていました。彼は、日頃から会社でも人望も厚く、また仕事に熱心な人で会社が退けて、その帰宅の途中にも度々社用を果たしていました。この日はちょうど、教会の開拓者記念祭が浜辺であるため家族を連れて行こうと退社後、仕事を一件済ませて急いでいた時、駅構内の引込線の踏切りで起こった事故でした。家族を心配された同僚たちは、公傷にすべく書類を整えられたそうです。彼はその厚意に感謝の涙を流されたのですが、義に生きられる二人はそれを固く辞退されました。「五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」(マタイ五章三十節)姉妹は毅然として申されました。世の人は変人と見るかも知れませんが、末日聖徒の鏡として、また誇りとしてこの二人の立派な態度は本伝道部史上に輝く一頁として永く記録されるのではないでしょうか。 

この夜、九時過ぎ、松本支部での集会を終えた今井地方部長と小室兄弟が西山姉妹たちと共に、病院に駆けつけて来られました。西山姉妹の家が火事にあった時、新潟支部の会員たちは、松川支部長がいかに尽力されたか、また彼の深い愛を身にしみて感じているので、入れ替わり立ち替わり、病院につめかけて来られていました。今井兄弟は、灌油の儀式の祝福の言葉の中に、特に、松川兄弟が復活の時に完全な身体を回復されるように祝福されました。私も自分自身が救われたような喜びを感じたのでした。 

ここにもうつの出来事が、今井地方部長が病院に到着されてから起りました。松川兄弟の手術に当られた看護婦さんの中に、約十年前に渋谷の支部で今井兄弟から福音を聞いた求道者(真島さん)がおられました。現在は、地方部長として堂々たる貫緑さに、もしや人違いではなかろうかとしばらくためらっていたそうですが、松川姉妹に尋ね、やはり今井兄弟であることを知り名乗りを上げられました。今井兄弟も、その奇遇に大変驚き、かつ再会を喜びました。早速、宣教師を紹介し、今度は会員になられるように勧めておられました。今井兄弟は、この看護婦さんに松川兄弟のことを託して夜行列車で帰京しました。私は一晩新潟に泊まることにしました。 

翌朝、病院に行くと、昨夜も徹夜で看護されたのか、休んだ様子もなく病室から目に涙を一杯にためて出て来た姉妹が、「ぐちゃぐちゃになったズボンのポケットから、会社でいただいたボートの券が出てきたんです。真(息子さん)を初めて海に連れて行くので、よほど嬉しくて急いでいたと見えて」と絶句してしまいました。 

「これから兄弟は、好きなスポーツも以前のようにはできなくなるかも知れません。しかし、今度はその分、家庭と教会に注がれる時間が多くなるのではないでしょうか。主は、これから大きく発展する新潟支部のために、もっと多くの時間を彼に要求されたのではないでしょうか」 

「そう言って下さると、ほんとうにありがたいです。今までも主人のスポーツについては、少なからず心配していました。学生時代からあらゆるスポーツで活躍した兄弟は、そのため腰椎分離症(ようついぶんりしょう)になって、新潟大学付属病院に一年近く入院しました。(当時、同病院の看護婦であった彼女に看護されたのが縁で、彼女が教会に導かれたロマンスがある)主人は、スポーツには目がない人ですから、どんなに忙しくても試合があるとそれに出て行ってしまいます。もし、また昔の病気がぶり返してはと案じていました。会社の方でも主人を頼りにしていますし。これからは、会社も認めてくれるでしょうし、もっと教会の仕事に精を出すことができるでしょう」 

生ける主よ、この信仰の一家を守り給え。この家族の将来に、また新潟支部の発展に限りなき恵みと曲豆かな祝福がありますように、心の中に祈りつつ私は病院を辞したのでした。 

その後、約十年の歳月が過ぎて、新潟支部の高橋澄江姉妹が尊い犠牲により、義足を穿かねばならなくなった時、松川兄弟はよく世話をされ、また励まされて、高橋姉妹もすっかり元気づけられて早く立ち上がることができたのでした。 

「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(ヘブルニ章十八節

「あなたはいつも口を開き、喜びの声を上げてわたしの福音を告げ知らせなければならない。アーメン。」(教義と聖約二十八章十六節)

信仰ひとすじ

宍戸よし姉妹は十四歳の頃から聖公会の熱心な信仰生活五十年余り、七十歳近くでこの教会に改宗され、さらに熱心な信仰生活を続けておられます。 

御主人が、第二次世界大戦で戦死され、まだ幼かった娘さんと息子さんが手元に残りましたが、娘さんも戦後まもなく、栄養失調が原因で亡くされました。ただ一人残った息子さんを立派に育て、息子さんも事業に成功されて教会の会員も十人ほど世話になっている立派なアパートを建てられました。別名モルモン荘と呼ばれるこのアパートで楽しく、若い会員たちに母親のように慕われて、ほんとうに平和な幸せな生活をしていました。 

すでに、ハワイ神殿を訪問されて、亡き御主人や娘さんと永遠に結ばれて、この上はただ一人の息子さんの改宗を待つばかりでした。最近、このお母さんの気持を知ってか息子さんが教会に集い始め、宣教師との家庭集会も受け、素晴らしい姉妹との結婚の話も進み、二重の喜びを迎えるばかりになっていました。 

突然、どうした主の御心なのか、その立派な息子さんが事業の失敗が原因で、家の中で自殺してしまわれたのでした。夫亡き後、三十年余り女手ひとつでここまで育てて来られた立派な息子さんを忽然として失われた姉妹の辛い胸中を察する時、私たち兄弟姉妹は、何と慰めてよいやら、途方に暮れるばかりでした。しかし、信仰に強く生きられたたる姉妹は、少しも取り乱すことなく、また何の不平ももらさず、すべてに感謝しつつ葬儀中も平安な微笑を湛えておられたのです。

アパートも借金のかたに人手に渡るため、近く家を出なくてはならないと聞き、「もしよろしければ私の家に来てドさい」との申し出に、姉妹は眼を輝かして、「御厚意はありがたいのですが、私は養老院に行って伝道したいと思っています」と燃ゆるような伝道の熱意を示されました。

ああ、たったひとりの息子さんを失って天涯孤独になったように見えた姉妹の側には、主が立っておられたのでした。さながら、二十歳前後の姉妹宣教師のごとくその美しい眼は、伝道の希望に輝き熱意に燃えておられます。

「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(ローマ十章十五節)「さて見よ、わたしはあなたに言う。あなたにとって最も価値のあることは、この民に悔い改めを告げて人々をわたしのもとに導き、わたしの父の王国で彼らとともに安息を得られるようにすることである。アメン。」(教義と聖約十五章⊥ハ節)

スリランカ共和国(セイロン島)で一人の少年が、重病になり、かつ危篤状態に陥りました。輸血しなければ、生命の保証はできない状態になり、その場にいあわせた人々の血液型を調べたところ、同型は父親だけでした。しかし、父親は高齢であったため、必要量の血液を取ると生命に危険な状態になってしまいます。しかし父親は、「どうか私の血を取って下さい。息子が生きれば、私は死んでもかまいません」と医者に嘆願しました。医者は、止むなく父親の血液を取って、その少年に輸血しました。 

少年は一命を取り留めましたが、その父親は生命を失いました。まもなく、すっかり健康体に復した少年は、「今、私はキリストの贋いの血をはっきりと知りました。私は、父の血によって生かされ、父は私のために血を流されて死んで行きました。キリストは十字架上の苦悶の中に全人類のために尊い血を流されました。その犠牲の尊い血によって、私たち全人類は生かされているのです」と。 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三章十六節

深い穴があって、一人の旅人がその穴に落ちてしまいました。這い上がれず、何日も助けられず飢えのために餓死の状態になっていました。そこを一人のクリスチャンと友人が通りがかりました。友人は、「もうこの人は助からない。もし助けようと飛び込めば、今度は自分が出られなくなって、彼と同じようになり餓死してしまうでしょう」と言い、旅人の冥福を祈って去って行きました。 

しかし、そのクリスチャンは身を躍らせて、その深い穴に飛び込みました。そのグッタリして弱りきった旅人を抱き起こし、肩にのぼらせて、穴から這い上がらせました。旅人は助かりましたが、足台となったそのクリスチャンは、その穴の中で餓死してしまいました。 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ十六章二十四、二十五節

一九六七年七月六日の朝日新聞に次のような見出しの記事が掲載されました。

Text Box: 父が愛した日本へ留学
洞爺丸で死んだ米人宣教師の娘
十三年間の母の願い東京友人の家で高校生活

 

 

 


 

 

 

 

この七月一日、アメリカからリンダ・リーパーさん(十五歳)が日本に来ました。十三年前、青函連絡船の洞爺丸が台風のため沈没した時、日本人乗客に自分の救命具を着けてやり、自分は海に果てた米人宣教師H・ディーン・リーパー氏の遺児。 

「夫が愛し、生命を捧げた国を、娘にも知ってもらいたい」と言う母親の願いからで、リンダさんはいま、日本人の家庭に引き取られて高校生活を始めました。 

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ十五章十三節) 

第二部悔い改め 

序文

「あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし、一人でもわたしのもとに導くならば、わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。」(教義と聖約十八章十五節

「わたしは主から命じられた事柄を知っており、それに誇りを感じている。わたしは自分自身のことを誇らないで、主から命じられた事柄を誇る。神の御手に使われる者となって幾人かでも悔い改めに導けること、これがわたしの誇りであり、喜びである。」(アルマ章二十九章九節

「さて、戒めは次のとおりである。地の果てに至るすべての者よ、悔い改めて、わたしのもとに来て、わたしの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊を受けて聖められ、終りの日にわたしの前に染みのない状態で立てるであろう。」(第三ニーファイニ十七章二十節)

第一章私の履歴

末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰箇条 

3・わたしたちは、キリストの賄罪により、全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。 

4・わたしたちは、福音の第一の原則と儀式とは、第一に主イエス・キリストを信じる信仰、第二に悔い改め、第三に罪の赦しのために水に沈めるバプテスマ、第四に聖霊の賜物を授けるための按手であることを信じる。 

「それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。いかに激しいか、あなたは知らない。まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。」(教義と聖約十九章十五〜十七節

「さらにまた、バプテスマの様式に関して教会に与えられた戒めは、次のとおりである。すなわち、神の前にへりくだって、バプテスマを受けたいと願い、打ち砕かれた心と悔いる霊をもって進み出て、自分のすべての罪を心から悔い改めたことと、最後までイエス・キリストに仕える決心をして進んでイエス・キリストの名を受けることとを教会員の前に証明し、また自分の罪の赦しを得るようにキリストの御霊を受けたことをその行いによってまことに明らかにする人は皆、バプテスマによってキリストの教会に受け入れられる。」(教義と聖約二十章三十七節

これらの参照聖句により私は、四十六年余り前、すなわち一九四九年十一月六日、仙台市を貫流する広瀬川の上流、第一章私の履歴巨岩の点々と横たわる清流でバプテスマを受け、仙台市で最初の末日聖徒イエス・キリスト教会の会員となりました。同年十二月二卜四日、キリスト降誕の前夜、すなわちクリスマス・イブに祭司に按手聖任。その二年後にメルキゼデク神権を受け、長老に聖任され、仙台支部初代の支部長に召されました。それからおよそ五年後、日本伝道部の翻訳者に召され、上京し伝道本部で翻訳に従事したのです。 

当時伝道本部では、佐藤龍猪兄弟がモルモン書の翻訳に従事しておられ、私はその傍らにあって日曜学校、神権会、扶助協会、MIA(相互発達協会)、系図などのテキストの翻訳をさせていただきました。 

約一年後に伝道部系図委員会会長に任命され、同時に東京地方部の高等評議員に召されました。一九七十年東京ステークが組織された時、七十人に召され、二年後の一九七二年には、アジアで始めての祝福師に召され、東京ステークに所属してステークや全伝道部からの希望者に祝福をさせていただきました。 

一九七七年十月、宣教師としてハワイ神殿ビジター・センターで奉仕の召しを受け、翌年五月、ハワイ神殿が再献堂されてからは、東京神殿奉仕の準備もあって特別な恩恵が与えられ、ダブル・ワーカーとして朝夕は神殿内でテンプル・ワーカーとして、昼はテンプル・ガイドとしてビジター・センターならびにテンプル・ヤードで奉仕させていただく機会に恵まれたのです。 

その夏と翌一九七八年の夏には、三百名近くの、日本からの最後の神殿訪問団のお世話をする機会をいただきました。特に、一九七八年の五月には、大管長の部屋でキンボール大管長からシーリングの権能を授かり、この尊い権能を以て多くの日本からの聖徒たちの尊い結び固めの儀式を執行させていただいたことは、今もって感激のいたりであります。 

二年間のハワイ神殿の奉仕を終え帰国して約一年後、一九八十年九月、東京神殿宣教師に召され約三年奉仕させていただきました。解任後、渡米してプロボ神殿でテンプル・ワーカーとして約半年間、奉仕する祝福にあずかりました。 

一九八四年十一月には、新しく献堂される台北神殿で再度、神殿宣教師として奉仕するよう召されました。思いがけずも、献堂式の日に第二副神殿長に召され、一年半の任期が終る時、愛する中国教会員たちの希望もあって、クリフォード神殿長に任期を半年延期するように要請されたのです。 

私どもは、ハワイ神殿の再献堂式を含め、東京神殿、台北神殿と三つの神殿の献堂式に参列する機会に恵まれました。特に、台北神殿の献堂式では、日の栄光の間において中国兄弟姉妹の涙にむせびながら歌う賛美歌に、深く心を打たれたのでありました。 

それから一年半近く、この台北神殿で奉仕させていただきながら、私ども夫婦が中国の兄弟姉妹から受けた愛と心尽くしは、誠に深く大きく限りなく、感謝の気持は到底筆舌に表わすこともできません。これ誠に、モロナイ書第七章四十七節にあるキリストの純粋な愛であって、この大きな愛に対する気持止めがたくその一端をここに披瀝(ひれき)してお礼の辞といたしたいと念願する次第であります。 

台北神殿の召しが決まった時から私どもは、過去の日中関係を顧みて、台湾の中国人が日本人に対してどのような感情を持っているだろうかと、いささか不安を感じておりましたが、意外にも物事に執着しない、鷹揚(おうよう)な国民性の現れか、蒋介石(しょうかいせき)総統の以徳報怨の精神の普及、あるいは、教育の結果なのか、教会員はもちろん、一般中国人の日本人に対する感情は全般的によく、非常に親切にしてくれます。 

昭和十六年九月十八日、満州奉天省柳条溝(りゅうじょうこう)に端を発した満州事変に長春商業学校五年生であった私は、日本で最初の学徒出陣として参加し、それ以来、日支事変、大東亜戦争と日本の一国民として忠君愛国の一念に献身してきた私が今一人の人間として、また、世界全人類の同胞の一人として深く反省し、特に中国の同胞に対し謝罪と感謝の念にかられる次第であります。ここに私の今まで歩んで来た道を赤裸々に述べ、皆さまの、特に、中日両国同胞の御理解をいただきたいと念願するものであります。

生いたち

私は大正三年、すなわち民国三年、西暦一九一四年六月⊥ハ日、南満州奉天省安東県鶏冠山(あんどうけんけいかんざん)という小さな町に生まれました。父は明治三十七、八年の日露戦争に参加し樺太に参戦しましたが、三男であったので戦後渡米しようとしましたが、旅費が足りず、戦勝の結果、日本が露国より譲渡された南満州鉄道株式会社に職を得て渡満し、鶏冠山の駅に務めていました。 

この鉄道ならびにその沿線付属地は、日本の所有する治外法権により日本政府の統治下に置かれ、いささかも中国政府の干渉も受けず、学校病院その他施設も日本にいると同様で、あたかも日本に住んでいるかのようでした。私の家族は大きくいつも多くの小さな弟妹がいましたので、母は、ひとりでは手がまわらず、中国人のお手伝いさんを雇って、子守や炊事を頼んでおりました。ですから、私どもは、中国人の世話で育てられたようなものでした。その後、父は、奉天省の首都奉天市の北方にある得勝台(とくしょうだい)、またその後西方にある孤家子(こかし)という小さな駅の駅長をしていましたが、駅員には住宅の外に、とうもろこしやトマト瓜野菜など作るため、相当な土地が与えられておりました。この土地もほとんどの人が中国人を雇って作らせていましたが、そのお陰で私どもは常に新鮮な野菜をいただくことができたのです。 

このように中国人に大変恩恵を受けながら育ってきたにもかかわらず中国人は労働して私たち呆人に仕える民私である、と下に見て無意識の中にも傲慢な気持になっていました。でも、よく旧正月などには村長さんの家に中国料章理によばれ、そのおいしさは格別で、その何ともいえない味はいまだに忘れられず、毎年牛車で迎えに来てくれるの第を留も前から指折り整て待ったものです。 

長春商業時代

十二歳で私は満鉄の経営する日本人鉄領小学校六年生を卒業し、満州のほとんど中央に位置する長春商業学校華語科一年生に入学しました。この学校は五年卒業でしたが、三年生よりほとんど軍人と同じような軍事教練を正式な学科の一部として受けました。五年生の時には現役の軍隊と合同演習をしたりしました。 

昭和六年、すなわち民国二十年九月十八日私たち四、五年生は、長春南方約五十里の公主領に駐屯する日本軍第二師団騎兵第四聯隊に投宿して、合同の夜間演習を行い、終了後兵営に帰って消灯ラッパを聞いて就寝したのですが、まもなく営内の異常な騒音に耳を覚まされました。倉庫の扉が開かれて新しい馬具、鞍、弾薬がどんどんと運び出されています。また、将兵たちが忙しく営内を走り廻っています。 

まもなく昨夜奉天北大営(きただいえい)で中日両軍が衝突、目下開戦中であるという噂が広がってきました。はじめは信じられず、仮定の演習でないだろうかと想像しましたが、私どもも特別仕立ての軍用列車で、騎兵聯隊と共に急きょ長春に帰り南嶺、寛城子(かんじへつし)で戦闘中の日本軍独立守備兵を応援に行くべしとの命令により、軍用列車に積み込まれて、初めて実戦の緊張感に包まれたのでした。 

この日、日本軍は南嶺寛城子の中国軍を急襲して敗走させこれを占領、その後着々と占領地域を拡大してきました。私たち学生は直接戦闘には参加しませんでしたが、戦闘部隊の後方にあって兵器、食料の運搬、飛行場建設、広野において戦死者の火葬埋葬などに協力、日本における最初の学徒出陣の栄誉を(にな)ったのです。 

その後、昭和十二年七月、河北省柳条溝において支那事変が勃発し、日本の勢力は支那大陸を越えて遠く東南アジアにまで進出し、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃によって大東亜戦争に拡大し、ついに第二次世界大戦へと発展していったのです。 

日本軍の兵士にとってこれは聖戦であり、一人一人が国のため同胞のために尊い生命を捧げて行ったのですが、中第一章私の履歴国人にとっては日本の中国への侵略に外ならず、最後まで抗戦を続けた訳です。日本にとってそれが聖戦であったとしても、中国にとって自国に対する侵略であり、日本でいわれている「勝てば官軍負ければ賊軍」の論法からすれば、日本は賊軍となります。また、日本は建国以来二千六百年、正義の戦を続けて来たので、いまだかって負けたことがなかったのに、今度はじめて負けたとすれば、それが果たして正義の戦であったかどうか、深く反省しなければならない訳です。 

ただ私を含め、明治の末期から大正、昭和にかけて成長した日本人が、そのような国粋の教育を受け、家庭において、学校において、軍隊において、社会において、八紘一宇の精神をもって世界を治めるよう教育され訓練されてきたので、あくまでも日本が起した戦争は聖戦であり、君のため、国のため、同胞のため、自分の生命を捧げることは、最も名誉なこととして戦の庭に出たのです。 

従って、昭和二十年八月十五日、降伏終戦の天皇の放送がなかったら、すでに焦土と化した本土に沖縄と同様、米軍が上陸してきても、戦いを止めなかったでしょう。私たち生き残った日本人は、昔同様の忠誠心を以て、天皇の命に従い、武器を放棄したのです。そして日本歴史始まって以来の出来事である、天皇自らがマッカーサー司令官の前に行って、謝罪されたのです。そのような謙遜さを私たち一億の日本人が、持つべきではないでしょうか。 

特に私どもは、勝利者連合国の言貝であった中華民国の蒋介石総統が、マッカーサーに勧めて、日本の天皇制を保持し、日本分割に反対したため、敗戦国であった日本が戦後このように急速に復興し、世界においても米国に次今日の繁栄を見るに至ったのは、誠にクリスチャンであった蒋総統の、「以徳報怨(いとくほうえん)」のお陰であり、私どもは一日本人としてまた同じ教会の会員として、よき隣人である中国の幸福のため、将来大陸中国に福音を宣べ伝え、中国における神の王国の建設に、貢献すべきではないでしょうか。 

元来日本の国語の主体をなしている漢字は・漢すなわち中国から来たものであり・日本の国民性の真髄である忠孝の精神または武士道も、儒教によって教えられたものであり、東洋思想の基幹をなしている仏教も、中国から渡来したものです。また空海を始め多くの名僧が、中国で学んで帰国後、その教えを広めたのです。また、鑑真、その慈国大師(じこくたいし)などの高僧が、招請されて日本に渡来し、その終生を布教に捧げており、二千年の昔仏教の渡来以来、度々遣唐使も派遣されています。いわば中国は日本の先輩であり、教えを受けた恩人でもある訳です。その恩人である中国を、日本が足蹴りしたのに対し、中国人はどうであったでしょうか。 

敗戦後満州における日本人、特に北満における開拓民が、ソ連兵の急襲に、生命からがら多くの子供たちを棄てて逃げ帰った時、この棄てられた子供たちに暖かい手を差し延べ、親代わりに育ててくれたのは、実に、中国の純朴な農民同胞でした。終戦四十年、当時足手まといになるため遣棄された赤ん坊または幼児が、養父母のもとで立派に成人して遥々、故国日本を訪ね、実の親を捜しあて、涙の面会をしても、養父母の愛が忘れられずに戻っていくのは、やはり中国同胞の大きな人類愛のお陰ではないでしょうか。また満州の引揚者がソ連兵士に虐殺されたのに対し、台湾からの引揚者は、蒋総統がそのような兵士を厳罰にしたため、何等の迫害を受けず、平穏幸せな帰国ができたことは、やはり蒋総統の「以徳報怨」のキリストの愛のお陰と、深く感謝せざる得ない訳です。

満州中央銀行時代

昭和六年柳条溝において、当時満州東三省に君臨していた張作罧(ちょうさくりん)を爆死させ、東三省より中国軍を追い払った日本は、翌昭和七年に入って満州国を建設しました。長春を新京と改名し、満州国の首都に定め、着々と建設工事を進め、数年後には新京は諸官庁舎の林立する大都会に発展していきました。 

今まで満州東三省すなわち奉天省、吉林省、黒流江省の中央銀行であった各省官銀と、張作罧の私立銀行であった辺業銀行を併合して、満州中央銀行が設立され、その時ちょうど長春商業学校を卒業した私は、この銀行に就職して、吉林分行に配属されました。省の中央銀行であっただけにその規模は大きく、行員は三百人近くおり、それに食堂料

理人、理髪師、雑役等が二百人近くおり、また軍人同様に武装した守衛が六十人ほどおりました。 

満鉄、朝鮮銀行、横浜正金(しょうきん)銀行からひとりつつ派遣された日本人にひとりの通訳を交えて、この銀行は管理運営されていました。商業学校出たての私は、始めその幹部団の走り使いをしておりましたが、後に外国為替係に配属されました。まだ若輩であった私でも日本人であるため、宿舎としてひとつの部屋を与えられ、召し使いも専属にひとりつけられ、身の廻りは何の心配もなく、朝から大変な中国料理の御馳走で、まるで殿様のような生活でした。また給料も、同年輩の中国の行員に比べると二倍近くもらい、そのお陰で私は、毎月弟に学資を送金しておりました。召し使いはもちろん、料理人、理髪師など私によく仕えてくれ、一般行員も皆よく親しんでくれ、とても楽しい生活でした。 

でも時たま、抗日分子をも交えての匪賊団(ひぞくだん)の襲撃などがあって、銀行は非常警戒態勢をとったこともありました。そのような時、独身者として銀行内で日本人ひとりだけの私は、外的よりも内部の抗日分子を警戒せよ、と言われて、ピストルを持たされていました。しかし、そのような事態は一度も発生せず、私が二年後進学のため退職した時には、百人近くの行員が盛大な送別会を開いてくれました。 

私は十二人の兄弟の二男として育ち、男兄弟が九人もいたので、父から皆平等に中等学校までは勉強させるが、それ以上行きたければ自力で行きなさいといわれました。私は勉強が好きだったので、どうしても大学まで行きたいと歴噸望んでおり、その学費をぞるため、商業を出て五就職しました。そして弟の学資まで送っていたのですが、その私弟は病死しました。その後自分の学資をため、二年後やっと母から父に強く頼んでもらい、許しを得て大学に行くこ躰、になったのです。 

北京留学時代

私は昭和十三年の春、ハルビン学院を卒業するとすぐ結婚し、家内同伴で三年間北京留学に向いました。 

昭和十二年夏の盧溝橋(ろこうきょう)事件勃発によって展開された日支事変により、華北はすでに日本の勢力下にあり、北京にはすでに華北臨時政府が成立しておりました。また満州国において、日鮮満蒙露の五族協和を推進する原動力として、協和会があったのに呼応して、華北には、日本の軍部の後援によって、新民会が設立され、民族協和運動を推進して

おりました。また新民会には調査班が設けられて政府機関、とくに市内各大学の図書館から、共産主義、三民主義、特に抗日書籍を没収して、その整理をしておりました。その中にソ連から入った新聞書籍が多く、私はロシア語ができましたので、留学生として勉強するかたわら、頼まれてそのほうの整理を手伝っておりました。 

中国語のほうの勉強は、私は論語孟子(もうし)が好きだったので、老儒学者を家に招いて原語で学ぶかたわら、スポーツを通じて北京市内の各大学生あるいは高校生と、親しく交わるように努めました。そして友だちが増えるにつれて、日本留学生と中国学生の交流する恒久的な機関を組織したらどうだろうかと思い立ち、何人かの親しい大学生、高校生と相談して、中日学生修養会と名付ける親睦会を組織しました。そして毎日曜日に中央公園や中南海公園などに集まって、ともにスポーツを楽しんだり座談会、討論会をいたしました。 

民族協和を推進する機関であった新民会は、このような団体の育成に力を入れていましたので、その後援で、私も中日学生修養会は、清朝末期の西太后(せいたいごう)が造って豪遊した、萬壽山(まんじゅさん)のはるかかなたに餐える玉泉山に、夏期講座のキャンプを行うことになりました。この山の頂に建っているかなり高い古びた塔の下に、天下第一泉と記した湧き水がこんこんと湧き出てとても冷たく美味しく、飯ごう炊事などもとても楽しいものでした。 

この会は私が発起人であったので、一応会長として皆の世話をしておりました。中国の学生の中に、日本人に反感を持っている者がいることを私は感じとっておりましたが、あまり気にもとめず、他の学生と同様に相対しておりました。ところが二日目の夜消灯後、皆が寝静まった深夜、この学生は突然私の部屋に闖入(ちんにゅう)して来て、ピストルを私に向けて、 

「お前は南京事変を知っているか。その仕返しをしてやる」と叫びました。 

私はなぜか少しも恐ろしくありませんでした。自分でも不思議なくらい落ち着いて、静かに口を開きました。 

「あなたが撃てば私は倒れるでしょう。でも私はあなたを愛しています」轟然(ごうぜん)たる銃声一発、私は仰向けに倒れました。腹から鮮血がおどり出て床が深紅に染まりました。驚いた学生たちが右往左往しておりましたが、まもなく私は救急車で萬壽山の病院に運ばれました。 

運よく外科医と助手がいあわせて、早速腹部の切開が行われました。幸いにも急所をはずれていたので、どうやら一命はとりとめたのですが、胃腸を貫いていたので腸を取り出し二人がかりで三時間の大手術でした。私はその間「海行かば」と「行け八紘を家となし」を歌い、医者に「静かに」と制止されたのを覚えています。 

出血多量のため二日後に危険な状態になって、輸血が必要となり、中日学生が我も我もと押しかけてきました。何度かの輸血により大分元気になったある日、私はベッドの脇ですすり泣くような声に目を覚まされました。見ると私を撃った学生萬君が涙にむせんでおり、私が気がついたのを見ると、すすり泣きながらあやまりました。私は彼の手を取って言いました。 

「君が悪いのではない。戦争が悪いのだ。君たちの熱い血で今私は救われた。この恩は生涯忘れませんよ」 

三週問目にやっと病院の庭に杖をついて出て、雲間に燦然(さんぜん)と輝いた朝日を見上げた時の感激は忘れられません。

約一カ月経って退院した私は、北京日本大使館勤務を命ぜられ、二ヵ月ほど出勤しましたが、まもなく本省勤務を命ぜられ帰国しました。 

半年程経て昭和十六年十二月八日、日本の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発しました。私は当時神道を信じていましたので、日本の勝利を確信し、また大和男児のひとりとして、祖国のため同胞のため一命を捧ぐべく、応召の日を待ちました。 

戦争の激化と共に軍部が内閣の指導権を握り、総理大臣となった東条英機大将が、外務大臣を兼任し、霞ヶ関の外務省に来て、私たち本省全員は庭に集合させられて、一場の訓示を受けました。また日比谷公園で行われた山本五十六元帥の国葬にも、外務省員として参加しました。

 

日露協会学校(国立大学ハルビン学院)時代

昭和九年四月十五日、私は二年間の勤めでできた多くの中国人の友人に別れを告げました。吉林(きつりん)を離れて、北満のハルビンにある外務省の後援で、大正十四年日露協会の創立した日露協会学校、後に満州国に移管されて国立大学ハルビン学院と改名された学校に入学したのです。主としてロシア語の習得と、ソ連事情の研究に励むことになりました。当時私は川上肇の貧乏物語や堺利彦全集などを読み、社会主義に関心を持っていましたので、ロシア語習得によって、共産主義とソ連事情を研究したいと思いました。また私はトルストイが好きで、特に「復活」を読んで感動し、ぜひ原文で読みたいと思い、ハルビン学院に入学したのです。 

この学校の生徒の大半は県費生といって、日本の各県からの派遣生でした。県下旧制(五年制)の中学で、成績が良くても学費がないため、大学もしくは専門学校へ進めない生徒が、県庁で試験を受け、何人もしくは何百人の中から、海外派遣生として選抜されて来るので、優秀な学生が多くおりました。教授は半数がロシア人で、その中にはロシア人の大学、極東学院の教授を兼任している方もおり、三年生になって卒業前には、よくこの極東学院と合同授業が行われました。「年生の一学期間は寮生活をしましたが、二学期からは自由にロシア人の家庭に下宿し、ロシア語習得、特に会話は急速な進歩をしました。一学期の終りにはプラウダ、イズベスチャなどのソ連の代表的新聞を読む程になれたのです。 

当時私は日本人として、神道を信じていましたが、よく下宿していたロシア人家族に彼らの教会へ連れて行かれました。ただ物珍しげに見て来るだけで、別にキリストを学ぼうとすることもなく、また信ずることもなく、ただ語学の熟達のため、よく宗教について議論をしました。しかしそれもあまり高ずると感情がでてくるので、かえって悪い結果となり、また彼らのキリストを信じない者は人間でないような態度に、憤慨せずにはおられませんでした。 

毎年厳寒の一月十九日。北満のハルビンでは零下三十度に降りる時に、ハルビン市を貫流する大河、松花江が三メ第一章私の履歴ートル位の厚さの氷に鎖されてしまいます。その大氷原に、五メートル近くの美しい氷の大十字架を建てます。その蔭のごとく溝を掘って、その先端に三メートル四方、深さ一メートル位の浴槽を造り、信仰の深い人が、その水に跳び込んで十字を切る様は、誠に壮観で、その敬慶な厳粛さには、思わず頭が下がりました。何万という見物人が出るので、三メートルも厚く張った氷も、時々、大きな音をたてて、ひびが入りました。また水に入った人たちが、上がって出る道がなく、人の頭をはって戻っていました。 

ほとんどの人が一回跳び込んで、三度十字を切って上がるのですが、背の曲がった婦人が三度跳び込んで、九回十字を切って上がったのが、強く印象的で忘れることができません。毎年何十人と跳び込むようですが、一人も風邪をひいたり病気にかかったりする人はいないそうで、やはり固い信仰の賜と驚嘆するばかりでした。ここを訪れる人は皆、氷の十字架に口づけをした後、その蔭のごとく十字に刻んだ溝から、それぞれに携えていったびんに水を汲み取り、これを聖なる水として大事に保存します。そして病気にかかった時、呑んだり塗ったりするのです。 

私が中耳炎を起して耳痛に悩んでいた時、下宿の息子が棚の奥から、この聖水を大事そうに持って来ました。耳の穴に流し込んであげると言われ、びっくりして断ったところ、信仰うすき者よ、と哀れむまなざしで見つめられたのにはまいったものです。私は二年間善良な白系ロシア人の家庭に下宿し、家庭の一員として彼らの生活に接して、多くのことを学び経験しました。 

主人はロシア人特有の純朴さを備えた善良な人で、革命前はシベリア鉄道の鉄道員として働いていたようです。革命で亡命してきてからは、いろいろな仕事につき、私が下宿していた頃はもう何もせず、家におりました。奥さんは白系ロシア人の小学校の先生をしており、クリスマスの時など学校に招待してくれ、講堂の中央に飾ったクリスマス・ツリーを囲んで、子供たちが手を取りあって踊る様は、誠に可愛らしく美しいものでした。 

またロシア人はクリスマス以上に復活祭を祝い、私も復活祭にはよく、教会に連れて行かれました。ハルビンには2多くの教会がありましたが、この日はどこの教会も満員で、庭一面にまで人が溢れて、一度中に入ると朝の二時頃までは出てこられません。何時間も司教の説教と聖歌隊の賛美歌に耳を傾けねばならないのです。皆手に火をともしたロウソクを捧げもち、時々アーメン、アーメンと言っては、身内の者とキッスするのですが、私はその中に一人だけぽつんと立っているのが、とてもきまり悪かったのをよく覚えています。 

彼らの生活がすべて、ギリシャ正教の信仰の上に立っていること、また革命後懐かしい故郷を追い出されて他国に寄留し、放浪する彼らが、革命の張本人であるソ連共産党、特にその指導者をいかに憎んでいるかは、彼らがレーニン、スターリンの名を口にする時に、かならずつばを吐くのを見て分かりました。私は彼らが蛇蜴のように嫌悪し、憎悪している共産党を組織し指導するソ連国の実態は、どうなのだろうか、実際にソ連国内に入って調査研究したいと望み、当時外務省が私どもの学校の卒業生から、毎年ひとりか二人選抜派遣している留学生試験を受けてみることにしました。幸運にも試験に合格し、留学することになったのですが、なぜか私の卒業の年はソ連留学はなく、中国北京留学に廻されました。

第二章戦争時代

戦争時代

昭和十八年応召の赤紙が来、私は妻子を残して、故郷の人々に送られ、勇躍応召地、会津若松に向かいました。身体検査の結果私は不合格になり、即日帰郷を命ぜられました。私は天皇のため祖国のために捧げた命、今さらおめおめどうして帰れようかと、どうしても帰らないとがんばりました。 

五十名程の即日帰郷の一団が、風呂敷包みを抱えて、ほっとしたような顔をして、嬉しそうにそわそわと帰って行くのが、窓越しに見えました。合格した入隊者が引率されて出て行くと、私は一人に残されました。軍医と二、三の将校が相談していたようですが、やがて軍医が来て、おまえのような身体では戦場に行く前に、ここの演習で倒れてしまうがよいかと、どなるように聞きました。私はそれでも本望ですと、きっぱりと答えました。 

では要保護兵として置いてみるかと、日の暮れる頃になって、やっと置かれることになりました。要保護兵と言つても、]般の兵卒の中にあって、まったく同様の訓練を受けました。私は外地にいて徴兵検査を延期していましたので、同僚の兵士たちより七才位年上でした。しかし体格においては最も貧弱でしたが、要保護兵としておかれた手前もあり、なにくそ負けてなるものかとがんばり、三カ月間の初年兵期間中四十度の高熱が出ても演習を休まず、零下二十度を降る厳寒にも、一度も火にあたることもなく活動し、内務学科教練を通じ最高点を取り、中隊百五十名の先任となり、一応除隊となって隊員を引率して営門を出ました。 

再応召仙台陸軍飛行学校時代

翌十九年八月再び応召、仙台の二師団に入隊し、航空兵として北海道札幌丘球飛行場に配属されました。零下三十度近く降る北海道の厳寒の雪中の訓練で通し、やっと雪解けの春が訪れる頃、私は二日間の厳格な試験の結果、大隊でただ人甲種幹部候補生にA口格しました。部下たちに戦車で雪の上を疾駆(しっく)歓送され、発車した汽車にやっと跳び乗って、一路仙台陸軍飛行学校へ向かいました。全国から集められた生徒が二千名近くおり、将校となるべく、訓練は一団と厳しさを加えました。

一方、戦局は深刻化し、私たちは毎日浜辺で梱包爆弾を抱えて、ばく進して来るタンクに突っ込む、神風戦法を訓練させられました。またB29やグラマン戦闘機などが、再三空襲して来るようになり、演習ならずして、実戦下に置かれる状態となりました。ある日爆弾は十メートル近くに落ち、私は砂をかぶり、またある時はグラマンが私めがけて急降下。機銃掃射は、私が土手の石に身を隠すや、雨のように傍を流れる水面を撃ちはじめました。 

終戦も近づいた七月某日の夜、ものすごい轟音(ごうおん)に、営舎外に跳び出してみると、B29戦闘機八十機が見事な体列を組んで、頭上を越え一路北へ向かっています。まもなく閃光が閃いたかと見ると、どかんどかんと投下される爆弾が炸裂して、たちまち仙台市は火の海と化しました。天上から降る火の雨と、地上から吹き上げる火の柱高射砲とが火花を散らし、爆音と砲音が夜空にこだまして、まるで映画そのものの壮観さ、しばし唖然と眺めるばかりでした。二日後焦土瓦礫(がれき)の山、廃虚と化した仙台市の片づけに行った時は、誠にみじめな思いでした。 

広島、長崎に原爆が投下されたニュースが伝わるやいなや、八月十五日正午二千名近くの生徒は、校庭に集められ、日本降伏の詔勅が下ったのです。建国以来二千六百年、まだかって経験したことのなかった降伏を宣言する天皇御自身の声を聞いた一億の国民は粛然とし、二千名近くの生徒と、百名にのぼる教官は黙然として声なく、ただむせび泣く音が、焼烙と化していく軍旗の中から聞こえてきます。あまりの無念さに、私は思わず遥か前方、壇上に頭をたれ呆然と起立している校長閣下(少将)に向かって、突然大声で叫びました。 

「この仇は必ず討ってみせます」

「よく言ってくれた。僕たちはもうこの世を去って行くものだ。君たち若いものにこの祖国の将来を頼むぞ」 

ふるえる閣下の声、誰一人声を発する者もなく、校庭は水を打ったように、静まったのでした。

終戦帰還暗黒時代

二度と帰るまじと出征した故郷へ、天皇の詔勅(みこごのり)なればこそ、恥を忍んで帰郷しすぐ上京、外務本省へ出頭しました。

そこには往年の都、大東京の面影はなく、今は廃虚と化した悲惨な姿。飢え死にそうな浮浪児がいたるところに散乱して、誠にみじめな見るに堪えない有様でした。 

神国日本を信頼し切っていた神道信念はもろくもくずれ、前途に光明を失った私は、暗黒の中にさまよう羊のように、また生ける(しかばね)のように、堪え難い一日一日を送っておりました。第一次世界大戦でドイツが降伏した時私と同じ階級軍曹で、負傷して寝ていたヒットラーが、病院のベッドで無念の涙を流し、復讐の一念からナチスを築き上げて、第二次大戦へと突入したヒットラーの書マインカンプをむさぼり読んで、ただ閣下に誓った復讐の一念を燃やしておりました。 

一方、「勝ってくるぞと勇ましく」と、故郷の人々に歌声高らかにおくられて戦場に出で立ち、御国のために散っていった多くの戦友が、この敗戦をあの世で何と見ているだろうかと思う時、いても立ってもいられない気持でした。重苦しい、堪え難い日々が続いていきましたが、ある日ぶらぶらと廃虚を歩いている私の耳に、熱心に大道で演説している声が響いて聞こえました。ひかれるように近寄って耳を傾けると、次のような話が入ってきました。「

昔ある藩主の部下であった人が、何かの汚名を着せられて斬首された。その息子は親の仇を討つべく、復讐の念に燃えて、十年あまり深山にこもって剣術の修業をし、誰にも負けない達人となってその藩主の邸に忍びいった。藩主の首がもう自分の手の中にあるのを知った時、その息子は急に悲しくなった。藩主の首を父の墓前に捧げたとて、果たして逝き父が喜んでくれるであろうか。これがほんとうに仇討であろうか。いやいやそうではない。仇人を愛せる人となることこそほんとうの仇討である。心の中から誰かがささやいて愕然とした彼は、その場に剣を捨てその邸を跳び出し再び深山に入り、今度は寺にこもって朝な夕な読経に専念した。二十年後彼は日本で知名の高僧となった。その頃、かの藩の治世が乱れたのでその藩主は、往年斬首した部下の今は知名の高僧となった息子を招請して、大広間の壇上に座らせ、自ら百卒を従へその先頭にあって、仰々しく高僧を伏し拝み頭をもたげ謝辞を述べたが、その藩主の眼を慈父の眼をもってにっこりと見つめたその息子の心に、これでおまえはほんとうの仇討ができたと、ささやく声が聞こえた」 

すいこまれるようにじっと聞いていた私の心に、何か熱いものが込み上げてきました。ひとつの灯火がともされ、それがだんだんと大きくなって来るのを感じました。そうだ、いままで憎んでいたアメリカ人を愛せる人にならなければならないのだ。そしてアメリカ人からも愛し尊敬される人にならなければならないのだ。その日から自分の心がだんだんと百八十度回転して行くのが感じられました。 

終戦連絡事務局時代(カトリックおよびプロテスタント研究)

私はまもなく東京の外務本省から、当時私の郷里近くであった仙台にできた、終戦連絡事務局(当時日本はマッカーサー司令官の統治下に置かれ、外交権はなく在外公館は全部引き上げてこの事務局が外務省の主なる任務機関となった)に配属されました。この事務局は宮城県庁内に設置され、仙台に駐屯する米軍ならびに軍政府と、県庁始め日本の諸官庁との連絡調整を図っておりました。 

私は昼間はこの事務局で働きましたが、夜は当時元二高の教授だった先生を校長として新設された東北外国語学校で、中国語とロシア語を教えていました。この学校はもちろん英語が主体であって、当時ドミニカン修道院の神父であったドイツ系のクーフナゲル氏が、英語を教えておりました。 

私は学課の合間に教員室でこの神父と話をしているうちに、だんだんと親しくなってきました。そして彼は私を修道院に伴い、また集会など招かれたりしました。初めは異様に感じた祈祷式は、説教がだんだんと心の中に入って来て、なにかしら暖かい光がさし込んで来るのを感じました。 

ある日彼は私を東仙台にある光ケ丘に伴い、我々はここにアメリカでフラナガン神父が建てたような、ボーイズタウンを造り、孤児を収容するのだ。あなたはカトリック信者となり外務省を辞めて、ここで働かないかと勧めます。私はまだ自分の職を放棄してまで信ずる信仰に至らず、カトリックの教義にいろいろ疑問の点もありました。洗礼を受けないでいたところ、彼は母国へ戻って行ったので、その後私は新教メソジスト派の東北学院教会に通いました。ゲルハート教授婦人のバイブルクラスで非常に可愛がられ、一年たってもうそろそろ洗礼を受けようかと思うようになりました。

第三章改宗

末日聖徒イエス・キリスト教会への改宗

私がメソジスト派の洗礼を受けようかと考えていた頃、私の教え子の家に下宿した二人の長老、オールドハム長老と赤木長老に紹介されました。彼らにもらったジョセフ・スミスの見神録に霊感され、モルモン書のイスラエル人集合の予言に感動、この教会に生ける予言者、神権、神殿があり、逝きし戦友、皆救われることを知って感泣しました。また宣教師が私と共に、冷たい氷のような広瀬川の清流に入ってくれることにも感謝してついに意を決し、一九四九年十一月六日バプテスマを受けたのです。 

私の家でバイブルクラスを開いていたフリーメソジストの宣教師は、これを知って憤慨失望し、私に一冊の本を呈し、勧告しました。 

「この本を読んで下さい。私たちはあなたが一刻も早く悪魔の教会から戻って来るように待ち望んでいます」 

その本の題名は『探照燈(たんしょうとう)に照らされたジョセフ・スミス』で、中を開くとジョセフ・スミスの悪口が羅列されてあり、それに赤線が太々と引かれてありました。 

私はそれを捨てて答えました。 

「私はあなたが私どもに尽くして下さったことに心から感謝しております。けれど私は末日聖徒イエス・キリスト教会に真理を見い出したのです。真理は人を変えますが、人は真理を変えることはできません。あなたがたも末日聖徒イエス・キリスト教会を研究されるように望みます」 

今年でバプテスマを受けて五十年になりますが、私は末日聖徒となったことを一度も後悔したことがないばかりか、無限に与えられる祝福にただただ感謝し、誠に主は生きたもうという証を、この生命ある限り宣べ伝えて、少しでもお役に立ちたいと念願しております。五十年間に与えられた祝福や経験した証は山積して一つ一つ挙げることはできませんが、少しでもみなさまのお役に立てばと念願しております。 

私がバプテスマを受けた時(一九四九年)息子が三人(九才、五才、二才)おりましたが、翌年七月四日に妻と長男が同じ広瀬川でバプテスマを受け、二男、三男は満八才になるとすぐバプテスマを受けました。また私がバプテスマを受けてから娘二人、息子一人が授けられ、皆それぞれ八才でバプテスマを受け、教会内で活発に活動し成長しました。四人の息子はそろって伝道に出、今は皆父親となって、また二人の娘も母親となって、それぞれよき末日聖徒の家庭をつくり、二十三人の孫、六人の曽孫にも恵まれています。子も孫も教会には熱心でそれぞれ祝福され、BYU教授、副ステーク会長、高等評議員、祝福師なども勤めさせていただいております。慈父天父また救い主、贖い主、主イエスの私ども一族に賜る祝福は日毎に多くなっております。

教会史跡巡りと一家の結び固め

私たち家族の教会活動の中で特記すべき頂点は、一九六八年の夏の、一家揃ってのアメリカ東部の教会史跡巡り、そしてその終りにソルトレーク神殿でハロルド・B・リー第十一代大管長(当時十二使徒会長)によって、家が永遠に結び固められたことでしょう。 

その三年前一九六五年夏に私ども夫婦は、日本からの最初のハワイ神殿訪問団に加わって、ハワイ神殿において永遠に結び固められました。また長男はちょうど日本での伝道が終わって、BYUへの帰途私どもと同行したので、長男とも結び固められたのです。その他の子供たちとはソルトレーク神殿でリー十二使徒会長によって結び固められて、天父のみもとへ行くパスポート・フ・ミリー・グループ・シートが完成したのです。 

東部の史跡めぐりはジョセフ・スミス生誕の地、ヴァーモントのシャロンを除いては大体見て回りました。カートーランド神殿の主がジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーに現れた教壇、最初の示現を受けた聖なる森、一八三十年四月六日六人の会員で教会を組織したフェイヤットのピーター・ホィットマー(初代)の家。またジョセフ・スミスとハイラム・スミスが殉教した血痕まであって、生々しく当時を偲ばせるカーセージの牢獄など、いずれも感動しました。特に教義と聖約の百二十一章から百二十三章までの啓示を受けたリバティ牢獄の訪問と、わずか5年程で湿地に美しい都を建設したノーヴー市にキャンプできたことは誠に感激の至りでした。 

ミズリー州インデペンデンスへの道で、カンザス市を通過した時、ちょうど市内に火事があって、遠く炎の燃えあがるのを見ていると、聖徒たちが家を焼き払われ追い出された有様が眼前にほうふつとして浮かびました。その後捕えられ追いすがる愛児を引きさかれ、リバティの牢獄にぶち込まれたジョセフ・スミスが、火の気のない零下二十度に下がるあの石床の牢獄の中で、主を呼び求める姿が思い起されました。 

「息子よ、あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は、束の間に過ぎない。その後、あなたがそれをよく堪え忍ぶならば、神はあなたを高い所に上げるであろう。あなたはすべての敵に打ち勝つであろう」(教義と聖約百二十一章七節)と、主は答えられました。 

「息子よ、あなたはこのことを知りなさい。すなわち、これらのことはすべて、あなたに経験を与え、あなたの益となるであろう。人の子はこれらすべての下に身を落とした。あなたは人の子よりも大いなる者であろうか。」(教義と聖約百二十二章七〜八節

と励まされた時の悲壮な状況が、まざまざと眼のあたりに浮かんで、流れる涙を止めることもできませんでした。 

ノーヴーは聖徒たちがオハイオ州からミズリー州へ、そしてまたミズリー州から追い出され、やっとたどりついたミシシッピー河畔の湿地帯で、聖徒たちが入るやいなや猛烈な蚊に襲われました。ブリガム・ヤング始め皆病に倒れ、中には瀕死の状態にあった人もいました。ジョセフ・スミスは神権の権能により一人一人、手を握って起こし、彼らは即座に立って歩き、ジョセフに従いました。五年ならずして、当時の西部における最大の美しい町とした奇跡の都それがノーヴーです。一八四六年再び暴徒たちに追い出され焼き払われ、聖なる神殿も破壊されて、今その跡がわずかに残るだけになっています。またカーセージに殉教したジョセフ・スミスとハイラム・スミスの墓のある記念すべき地で、最近は私たちの教会が復元末日聖徒イエス・キリスト教会から買取って、歴史的記念の場所として保存しているところです。 

私は当時の聖徒たちの労苦を偲ぶため、まだ真暗な早朝三時にテントを出て、当時の湿地帯を思わせる草むらの中に入って座禅、当時そのままの蚊に猛襲されました。一指をも動かさず、二時間不動明王と化したのですが、不思議に何の痛みも感じず、明るくなってテントに帰りました。全身刺された痕跡に子供たちはびっくり仰天、「どうしたの」と心配しましたが、病気にもならず無事一家揃って旅を続けられたことは、正に生ける主が見守って下さっておられたことを身をもって痛感しました。尊い証を体験させられましたことは、慈愛の天父に心から感謝せずにいられません。 

またジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーにバプテスマのヨハネが現われ、アロン神権を授け、二人がお互いにパプテスマを施しあった、サスケハナ河畔。そこに建つ記念の銅像を過ぎて、人跡未踏の険しい崖をかけおり、清い流れに浴しました。ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーのバプテスマを偲ぶことができたのも、誠に貴重な体験でした。崖の上から見ていた案内役のジョン・チェース兄弟は、一八二九年の春ジョセフとオリバーが、ここで宗改この清い流れに入って以来、末日聖徒で入ったのは渡部兄弟が初めてではなかろうかと言われました。 

ソルトレ−ク神殿での素晴らしい家族の結び固めを登、カリフォルニアに向かう途中、ネバタで道に迷い、おま第けに深夜タイヤがパンクして立往生しました。襲いかかるコヨーテに堕て火を炊いたりした時も、心からなる祈りによって危険を脱し得たことも誠に主の見守りのお陰と感謝するばかりです。 

米大陸往復横断一万数千キロの行程において、一家(父母、息子四、娘二、案内役チェース兄弟)なんの事故もなく(三男と二女が一度昏倒しましたが、灌油の儀式で即座に癒される)無事記念すべき旅行を終えたことは、天父の加護なくしては考えられないことです。誠に主は生きたもうて私たちを見守っておられることを、心から証させていただきます。

不思議なクリスマス祝福師の祝福

私はよくクリスマスに不思議な、貴重な体験をさせられます。その二、三を紹介したいと思います。今から二十七年余り前、一九七二年二月二十七日、アジアで初めての祝福師として、故リグランド・リチャード十二使徒に聖任されました。最初は全国から受けに来られたので、大いなる神の恵により、私が祝福させていただいた兄弟姉妹は六百

九十二人(一九九八年九月現在)を突破し、数々の尊い体験を授けられました。 

よく祝福をさせていただいた人々から、その後とも、いろいろな人生問題にぶつかって相談を受けます。そのような時に私は、「主はこのように言われた、聖典にはこう書いてありますよ」と答えられるように、できるだけ多くの聖句を暗記するように努めています。 

「また、あなたがたは何を言おうかと、前もって思い煩ってはならない。ただ絶えず命の言葉をあなたがたの心の中に大切に蓄えるようにしなさい。そうすれば、それぞれの者に必要な部分が、必要なそのときに授けられるであろう。」(教義と聖約八十四章八十五節

東京神殿の宣教師に召されて、二年目の一九八一年のクリスマスの日曜日でした。その朝横須賀の米海軍内にある支部から、一人のアメリカの姉妹が私から祝福を受けたいと、横浜ワードに来ることになっていました。約束の時間は九時でした。 

私は毎朝のように六時近くに祈るため、神殿前の有栖川公園に行きました。すると七羽の真白な美しい白(さぎ)が、神殿のまん前に道を隔てて立っている緑の松の枝にとまりました。バトモス島でヨハネに現れた主の右手の掌には、七つの星が輝いていたのですが、それが北斗七星であったかどうかは知るよしもありません。いままで一羽の鷺がときたま公園の池に降りたっているのを見ることがありましたが、あたかも七という数でなければならないかのように、七羽そろって主の宮のまえのクリスマスツリーを偲ばせるような常緑松に止まっている光景には、特にそれがクリスマスの日曜日の朝とあって、私もしばし唖然と眺めておりました。 

やがて私がその松の湧き水から小さい流れを走って跳び越えた瞬間、私は何かにつまずいて彼岸の岩にどっとうつ伏せに倒れました。目から火花が出、岩に胸を強く叩きつけられ、呼吸が止まりました。苦し紛れに私は草むらの中をのたうちまわりました。その時私は無意識にも「天のお父様、天のお父様」と、天父の名を呼び求めていました。やっと息ができ我にかえった時、顔がめらめらとします。手を当てると鮮血がたらたらと出ています。瞬間私は主が十字架Lで流した血の苦しみを偲びました。 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」」(マタイ十六章二十四節

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(ルカ九章二十三節

「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただく璋その慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第二コリント一章四節

「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(ヘブル二章十八節

「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに、あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」第三ニーファイニ十七章二十七節

私の頬骨と岩がぶつかって顔面が裂けたのです。九時の横浜ワードの約束に、もう病院に行く時間がなかったので、妻に応急処置をしてもらい付き添われて横浜ワードに行きました。アメリカの娘さんはお母さんに伴われて、すでに見えておられました。私を見ると驚いて祝福を受けるのを躊躇されましたが、このためにこそ私は病院より先にここに来たのです、と祝福させていただきました。私の頬から鮮血がしたたり、お母さんと娘さんの目から涙が流れ落ちました。 

祝福が終わるとお母さんは、御自分で作られたというクッキーを一包み下さいました。傷を見て、これはたいへんと武井兄弟の車で急きょ済生会病院救急口に連行、幾針か縫っていただきました。一日断食、夕方教会の帰りに白楽の駅で、そのお母さんの御手製のクッキーをいただいた時の味は、終生忘れることができません。その後そのお母さんは感激されて、その娘さんの弟さんも私のところへ祝福を受けに伴われ、その息子さんはまもなく私の勧めに従って、伝道に出られました。

 

クリスマスツリー

この二年後、一九八三年十二月二十四日のクリスマスイヴに、私は妻とサンホゼの長女の家から、ソルトレーク飛行場に降り立ち、迎えに来た息子、孫たちと共に、直接テンプル・スクェアーのビジター・センターの前の広場の、雪の上に飾られているイエス降誕のパノラマを見に行きました。 

あたり一面純白の雪に覆われ、樹々には雪の花が咲きまた、五色の電灯がともされ、さらに天からの贈物マナのような真自な雪片がちらちらと降り注ぎ、それが電光に反映して誠に美しく、なんともいえない光景でした。しばらく立ちすくんで見とれていましたが、突然ビジター・センター二階中央広場に立っている「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と両手を広げておられるイエスが、窓越しに跳び出して来られ、パノラマのマリアに抱かれているイエスに代わられたかのように思われました。私は愕然とし、イエスが確かに全人類のためにこの世に降誕された証を強めたのです。 

その夜オレムの息子の家に泊まったのですが、感激の余り眠られず朝の三時頃、山に登って祈ろうと、オレムからプロボに行き、プロボの街を離れてプロボ川をさかのぼりました。 

しばらく歩いて山と山の問を右折れに進もうとした時、猛烈な吹雪に襲われました。前にも進めず後にも退かれず、息も絶えだえに危うく倒れそうになった時、路端に一本の常緑樹が立っているのを見つけました。私はその幹にすがりつきました。よく繁った緑葉がその吹雪から私を守ってくれました。何時間たったでしょうか。東の空が白むころ吹雪はやみました。私は感謝の涙で潤む眼で、その常緑樹を伏し拝み、家路についたのです。 

その後そこを通るたびにその樹がありがたく、私は敬礼して通り過ぎていたのですが、ある朝突然その樹の姿が見えません。びっくりして近寄ってみると、何者かによって無惨にも切り倒されているのです。私は呆然うずくまり、冷たくなったその樹を撫でまわしました。私を救ったイエスが十字架で息を引き取られたような感じがし、しばらくその樹を離れることができず、私はその切られた樹の木片二本を携え帰って、十字に組んで私の机上に飾りました。宗改それ以来、私はクリスマスが来て、美しく飾られるクリスマスツリーを見るたびに、あの時の常緑樹を思い出します。 

クリスマスイヴにすられた財布

この翌年一九八四年十一月十七日、台北の神殿台北聖殿の献堂式も終わってまもなくのクリスマスイヴ。私は妻と共にこの台湾に留学し、もっか師範大学で学んでおられる友人の家族を訪ねるべくバスに乗りました。雨が降っておりバス内はとても混んでおりました。若い青年たちがすぐ立って私たちに席をゆずってくれました。私たちは感謝して座り、中国人はほんとうに親切で素晴らしい民だと語りあっておりました。

それからしばらくして、何の気なしにポケットに手を入れると、財布がありません。驚いてあたりを見まわし捜そうとしましたが、何だか席をゆずって前に立っている人に悪いような気がしました。彼らは急変した私の顔色に気づいたようで、申し訳なく思いました。もちろん見つかりませんでした。 

後で、妻が乗る時に私の尻を押し上げて自分は乗らなかった人がいたと言ったので、たぶん犯人はその人であったと思います。失った数百円はすぐその人に対するクリスマス・プレゼントであったと気づいて、なんの惜しげもなかったのですが、中に入れてあったかけがえのなかった記念の写真が惜しまれました。財布をとった人がお金だけとって財布と写真を、バス停近くのゴミ箱に捨ててはいないかと、捜してみましたがついに見つかりませんでした。 

財布には灌油にオイルと神殿の推薦状も入っておりましたが、推薦状は監督とステーク会長に面接して再発行してもらい、灌油の小瓶はオレムの息子からまた送ってもらいました。席を譲ってくれた中国の青年に対する感謝の気持を大切に保って、財布を盗んだ中国人を憎まないように、自分に強く言い聞かせました。そして次の二つの聖句を暗記しました。 

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また盗人らが押し入って盗み出すこともな天に、宝をたくわえなさい。」(マタイ六章十九、二十節

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。 

主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」(ヨブ=早二十一節)

神生的道成了肉身

そしてその一年後の(一九八五年)のクリスマスの日です。私は前述の通り日本人を代表して、蒋介石総統に対する感謝の気持もあり、毎朝中正記念堂まで走っていました。中国人と共に国歌を歌い国旗掲揚に参列します。その後、彼の銅像の後方で賛美歌を歌いお祈りをして体操をするのですが、例の通りこれが終わって、隣で体操をしている人にチラシを渡し伝道を始めたのです。するとその人は「私は中国人で道教を信じていますので、外国の宗教は必要ありません」と拒絶しました。私は世界で最もよく読まれている聖書には次のように書かれていますと伝えました。 

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ一章十四節

道が肉身となって私たちの中に宿ったのがイエス・キリストです。釈迦は「ここに道がある。この道を行けば救われる」と言い、孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」と教えました。わが主イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と言われました。(ヨハネ十四章六節

釈迦も孔子も、キリストが救い主であることを証明したのです。日本の神道も、神の生んだ道が肉身となって、私宗改たちの中に宿ったのですと証をしました。その人はうなずいてチラシを受け取って去りました。 

シーリング・パワー

私は恵まれて、この教会の最高の権能である、祝福師とシーラーの権能を授けられました。そしてこれらの権能によって多くの兄弟姉妹を祝福し、また自ら祝福され、貴重な体験・証を授けられましたことを、心から天父とこれらの兄弟姉妹に感謝しております。 

「また、神権の儀式と権能なくては、肉体を持つ人間に神性の力は現れない。」(教義と聖約八十四章二十一節)私が最初にシーリング・パワー(結び固めの権能)を授けられたのは、ハワイ神殿の宣教師をしていた九七九年の五月でした。一九七七年から宣教師として、ハワイ神殿のガイドとして働くよう召されました。その時はまだ神殿は修理中でクローズされていたのですが、その翌年六月再献堂されました。東京神殿で働かせていただく準備として、特別にダブルワーカーとなることを許されて昼間はガイドとして、世界中から来られる一日に千人にのぼる観光客に神殿の庭を案内し、朝夕は神殿内でテンプルワーカーとして働かせていただいたのであります。朝起きてから夜寝るまで、この時ほど充実した楽しい日々を送ったことはない程でした。 

約一年経つて一九七九年の五月のある日、ムーディ神殿長が私に話があると言われて、御自分の部屋に呼ばれました。「キンボール大管長があなたにシーリング・パワーを授けたいと言われておられるのですが、あなた一人のためわざわざここまで来られるわけにはいきませんがどうしますか」 

「今からすぐキンボール長老の部屋にまいります」 

「それは結構ですが今、ユナイテッド・エアラインがストライキ中なので恐らく切符がないでしょう」と答えられました。 

しかしすぐに親切に、テンプルワーカーで旅行社に働いている人に電話して下さいましたが、果たしてありません。私も息子の友人が旅行社に勤めていたので、聞いてもらいましたがありませんでした。私たちは断食して祈り、翌朝神殿に行くと、親しかった中国人の兄弟が来て「大切な召しを受けたそうですね」と言われました。「だけど切符がなくて行けないのですよ」と答えると、「私が飛行機に乗せてあげますからすぐ用意しなさい」と言われました。半信半疑で妻と共に用意していますと、一時間位して車で迎えに来て下さり、不思議やまもなく私たちは機上の人となったのであります。 

ソルトレーク飛行場には息子が迎えに来てくれ、翌日三時の約束の時間に息子夫婦、孫をも伴って、キンボール大管長の部屋を訪れました。まず秘書のへーコック兄弟が「素晴らしい」と日本語で両手を挙げて迎えて下さり、大管長の部屋の扉を開かれると、大管長は椅子から立ってこちらに来られます。私は急いで進みよって握手をしたところ、右手でぐっと強く抱きしめられ、また左手で妻を抱えられ、妻が大管長の左頬にキッスをしたので、私は右頬にキッスをして泣き伏してしまいました。 

私が人と握手しただけで泣いたのは、これが二度目でした。最初は三十数年前、仙台を訪れたヘレン・ケラー女史に会った時でした。当時彼女は六十何才かでしたが、その顔はほんとうに幸福そうに美しく光り輝いていたのです。 

私は、あなたは盲聾唖の三重苦を背負っておりながら、なぜそのようなに幸せそうに光り輝いているのですかと尋ねると、彼女は答えました。 

I know the Lord lives and He is always with me wherever I go, so I am the happiest lady in the world. (私は主が生きてましまし、私がどこに行こうと共におられることを知っているからです。私は世界で最も幸せな女性です

キンボール大管長も同様でした。彼は私の頭上に手を置いて、結び固めの権能を授けて下さいました。 

We lay our hands upon your head and confer upon you the sealing power. (私たちはあなたの頭に私たちの手をおき・あなたに結び固めの権能を授けます

誠に彼は主と共に働いておられます。 

その翌日でした。私は毎朝ジョギングするのが習慣でしたので、プロボ川沿いに川をさかのぼって、ブライダルフォール(花嫁の滝)まで走り折り返し、往復十一キロくらい道を走っていました。突然一台の車が後から疾走して、私を追い越したかと思うと突然ストップして、一人のジェントルマンが降り立ち私に向かって、

Why are you running here now, the other day I saw you are running on Laie Beach. (なぜここを走っているんですか?先日はライエビーチを走っていたんじゃないですか?) 

「キンボール長老に会いにきたんですよ。昨日会いましたよ」 

What did he say? (彼は何と言われましたか?) 

私が得意になって、「シーリング・パワーをもらったんですよ」と答えようとすると、彼はすかさず続けて叫びました。

Perhaps he said you must repent. (きっと悔い改めろと言われたでしょう

私は黙って走り始めました。 

いただいた結び固めの権能で私はその夏、日本からの最後の訪問団の、多くの家族を結び固めさせていただきました。そして八月十五日、二年間の伝道と神殿奉仕を終えて帰国しました。シーリング・パワーはその神殿だけのものであったので、(ハワイでは特に結婚の司式には政府の免許が必要なため、それも市政府に手続きして取りました)、翌一九八十年十一月二十七日東京神殿献堂式の時、再び受けました。十何人の召しを受ける人が待っている部屋に、キンボール大管長はロムニー副管長を伴って(大管長会が交互に按手聖任します)入ってこられました。つかつかと私の前に来られ、私の手を取って座らせ最初に聖任と共にシーリング・パワーを授けられたのです。 

約三力年にわたる東京神殿の奉仕中には、数々の貴重な神殿結婚、結び固め、親子の結び固めを執行させていただく光栄にあずかり、その感謝の気持ちはとうてい筆舌に尽くすことができません。台北聖殿(神殿)においても数々の光栄に浴したので、その二、三を紹介させていただきます。 

一九八五年の四月六日、国民党の幹部であり蒋介石の幕僚で、国民大会浙江省(せつこうしょう)代表であった故李超英(りちょうえい)氏と、その未亡人張方徳(ちょうほうとく)姉妹を永遠に結び固めさせていただきました。故人の代理を、友人であった梁潤生(りょうしゅんせい)祝福師がいたしました。 

()(張方徳)姉妹は私どもと同じ台北西ステーク第ニワードの会員で、かねがね私どもととても親しくしていましたので、特に頼まれる光栄に浴したのでした。 

一九八六年三月二十二日、台北東ステーク第一ワード扶助協会会長、施陣秀英(しじんしゆうえい)姉妹のお子さんがた、施淑娼(ししゅくけん)施波宏(しぶんこう)施美紀(しみきしみき)の親子の結び固めをさせていただきました。施姉妹は五年ほど前に東京神殿で最愛の御主人を施生甫兄弟と結び固めされたのですが、その時お子さん方を伴われず、また帰国後まもなく御主人は交通事故で急死のです。故人の代理を台北聖殿の劉春華(りしゅんか)書記が勤めました。

神生的道成了肉身

そしてその一年後の(一九八五年)のクリスマスの日です。私は前述の通り日本人を代表して、蒋介石総統に対する感謝の気持もあり、毎朝中正記念堂まで走っていました。中国人と共に国歌を歌い国旗掲揚に参列します。その後、彼の銅像の後方で賛美歌を歌いお祈りをして体操をするのですが、例の通りこれが終わって、隣で体操をしている人にチラシを渡し伝道を始めたのです。するとその人は「私は中国人で道教を信じていますので、外国の宗教は必要ありません」と拒絶しました。私は世界で最もよく読まれている聖書には次のように書かれていますと伝えました。 

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ一章十四節

道が肉身となって私たちの中に宿ったのがイエス・キリストです。釈迦は「ここに道がある。この道を行けば救われる」と言い、孔子は「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」と教えました。わが主イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と言われました。(ヨハネ十四章六節

釈迦も孔子も、キリストが救い主であることを証明したのです。日本の神道も、神の生んだ道が肉身となって、私宗改たちの中に宿ったのですと証をしました。その人はうなずいてチラシを受け取って去りました。 

シーリング・パワー

私は恵まれて、この教会の最高の権能である、祝福師とシーラーの権能を授けられました。そしてこれらの権能によって多くの兄弟姉妹を祝福し、また自ら祝福され、貴重な体験・証を授けられましたことを、心から天父とこれらの兄弟姉妹に感謝しております。 

「また、神権の儀式と権能なくては、肉体を持つ人間に神性の力は現れない。」(教義と聖約八十四章二十一節)私が最初にシーリング・パワー(結び固めの権能)を授けられたのは、ハワイ神殿の宣教師をしていた九七九年の五月でした。一九七七年から宣教師として、ハワイ神殿のガイドとして働くよう召されました。その時はまだ神殿は修理中でクローズされていたのですが、その翌年六月再献堂されました。東京神殿で働かせていただく準備として、特別にダブルワーカーとなることを許されて昼間はガイドとして、世界中から来られる一日に千人にのぼる観光客に神殿の庭を案内し、朝夕は神殿内でテンプルワーカーとして働かせていただいたのであります。朝起きてから夜寝るまで、この時ほど充実した楽しい日々を送ったことはない程でした。 

約一年経つて一九七九年の五月のある日、ムーディ神殿長が私に話があると言われて、御自分の部屋に呼ばれました。「キンボール大管長があなたにシーリング・パワーを授けたいと言われておられるのですが、あなた一人のためわざわざここまで来られるわけにはいきませんがどうしますか」 

「今からすぐキンボール長老の部屋にまいります」 

「それは結構ですが今、ユナイテッド・エアラインがストライキ中なので恐らく切符がないでしょう」と答えられました。 

しかしすぐに親切に、テンプルワーカーで旅行社に働いている人に電話して下さいましたが、果たしてありません。私も息子の友人が旅行社に勤めていたので、聞いてもらいましたがありませんでした。私たちは断食して祈り、翌朝神殿に行くと、親しかった中国人の兄弟が来て「大切な召しを受けたそうですね」と言われました。「だけど切符がなくて行けないのですよ」と答えると、「私が飛行機に乗せてあげますからすぐ用意しなさい」と言われました。半信半疑で妻と共に用意していますと、一時間位して車で迎えに来て下さり、不思議やまもなく私たちは機上の人となったのであります。 

ソルトレーク飛行場には息子が迎えに来てくれ、翌日三時の約束の時間に息子夫婦、孫をも伴って、キンボール大管長の部屋を訪れました。まず秘書のへーコック兄弟が「素晴らしい」と日本語で両手を挙げて迎えて下さり、大管長の部屋の扉を開かれると、大管長は椅子から立ってこちらに来られます。私は急いで進みよって握手をしたところ、右手でぐっと強く抱きしめられ、また左手で妻を抱えられ、妻が大管長の左頬にキッスをしたので、私は右頬にキッスをして泣き伏してしまいました。 

私が人と握手しただけで泣いたのは、これが二度目でした。最初は三十数年前、仙台を訪れたヘレン・ケラー女史に会った時でした。当時彼女は六十何才かでしたが、その顔はほんとうに幸福そうに美しく光り輝いていたのです。 

私は、あなたは盲聾唖の三重苦を背負っておりながら、なぜそのようなに幸せそうに光り輝いているのですかと尋ねると、彼女は答えました。 

I know the Lord lives and He is always with me wherever I go, so I am the happiest lady in the world. (私は主が生きてましまし、私がどこに行こうと共におられることを知っているからです。私は世界で最も幸せな女性です

キンボール大管長も同様でした。彼は私の頭上に手を置いて、結び固めの権能を授けて下さいました。 

We lay our hands upon your head and confer upon you the sealing power. (私たちはあなたの頭に私たちの手をおき・あなたに結び固めの権能を授けます

誠に彼は主と共に働いておられます。 

その翌日でした。私は毎朝ジョギングするのが習慣でしたので、プロボ川沿いに川をさかのぼって、ブライダルフォール(花嫁の滝)まで走り折り返し、往復十一キロくらい道を走っていました。突然一台の車が後から疾走して、私を追い越したかと思うと突然ストップして、一人のジェントルマンが降り立ち私に向かって、

Why are you running here now, the other day I saw you are running on Laie Beach. (なぜここを走っているんですか?先日はライエビーチを走っていたんじゃないですか?) 

「キンボール長老に会いにきたんですよ。昨日会いましたよ」 

What did he say? (彼は何と言われましたか?) 

私が得意になって、「シーリング・パワーをもらったんですよ」と答えようとすると、彼はすかさず続けて叫びました。

Perhaps he said you must repent. (きっと悔い改めろと言われたでしょう

私は黙って走り始めました。 

いただいた結び固めの権能で私はその夏、日本からの最後の訪問団の、多くの家族を結び固めさせていただきました。そして八月十五日、二年間の伝道と神殿奉仕を終えて帰国しました。シーリング・パワーはその神殿だけのものであったので、(ハワイでは特に結婚の司式には政府の免許が必要なため、それも市政府に手続きして取りました)、翌一九八十年十一月二十七日東京神殿献堂式の時、再び受けました。十何人の召しを受ける人が待っている部屋に、キンボール大管長はロムニー副管長を伴って(大管長会が交互に按手聖任します)入ってこられました。つかつかと私の前に来られ、私の手を取って座らせ最初に聖任と共にシーリング・パワーを授けられたのです。 

約三力年にわたる東京神殿の奉仕中には、数々の貴重な神殿結婚、結び固め、親子の結び固めを執行させていただく光栄にあずかり、その感謝の気持ちはとうてい筆舌に尽くすことができません。台北聖殿(神殿)においても数々の光栄に浴したので、その二、三を紹介させていただきます。 

一九八五年の四月六日、国民党の幹部であり蒋介石の幕僚で、国民大会浙江省(せつこうしょう)代表であった故李超英(りちょうえい)氏と、その未亡人張方徳(ちょうほうとく)姉妹を永遠に結び固めさせていただきました。故人の代理を、友人であった梁潤生(りょうしゅんせい)祝福師がいたしました。 

()(張方徳)姉妹は私どもと同じ台北西ステーク第ニワードの会員で、かねがね私どもととても親しくしていましたので、特に頼まれる光栄に浴したのでした。 

一九八六年三月二十二日、台北東ステーク第一ワード扶助協会会長、施陣秀英(しじんしゆうえい)姉妹のお子さんがた、施淑娼(ししゅくけん)施波宏(しぶんこう)施美紀(しみきしみき)の親子の結び固めをさせていただきました。施姉妹は五年ほど前に東京神殿で最愛の御主人を施生甫兄弟と結び固めされたのですが、その時お子さん方を伴われず、また帰国後まもなく御主人は交通事故で急死のです。故人の代理を台北聖殿の劉春華(りしゅんか)書記が勤めました。 

第四章 聖地旅行

聖地巡礼

約五十年前この教会に改宗して以来、私どもの金婚の年には聖地旅行をしょうと夢みておりましたが、一九八八年金婚の年を迎えた早々一月二日より十八日間恵まれて、道生教会の方々神学院長さんならびに三人の牧師さんを加えて、約三十名の方々と聖地巡礼をして来ました。今回は残念ながら尚子が腰痛のため私ひとりで参加しましたが、次の機会に必ず尚子を伴って再度巡礼したいと念願しております。 

主イエスの歩かれた足跡を辿り、使徒パウロの伝道されたアテネ、コリント、ローマを巡る、十数日間の旅行でした。主と共に歩み、パウロと共に伝道できたことを感じえた生涯、永遠に忘れ得ぬ記念すべき旅となりました。最後に強めた証は、預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンが教義と聖約七十六章に証しているように「小羊()は生きておられる」でした。 

今ここに、私が今回強めた証を三項目に分けて述べたいと思います。 

第一は、メギド、カイザリヤ、カペナウム、エリコその他多くの地から遺跡が発掘されて、聖書に書かれてあることが歴史的、考古学的また科学的に証明されている現実を目の辺りに見、触れて聖典の証を強め得たことです。 

第二は、今回、他の宗派の人々と共に旅行をしたことによって、要は教義や理論でなくて愛と模範であることを体得し、次の聖句を身を以て痛感したことであります。 

「わたしにむかって『主よ主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイ七章二十一節

出発最初の日に、私一人がモルモン教徒として一行の皆さんに紹介されると、早速一人の新教の教会員が「モルモン教はキリスト教ではありませんよ」と挑戦して来ました。私はこのような挑戦に応じて多くの失敗を重ねてましたので、パウロが戒めた「主の僕たる者は争ってはならない。」(第ニテモテニ章二十四節)を強く念頭において「そうですか」と軽く受け流しました。また毎度食事の時にまずお茶が出、食後にはコーヒー、紅茶などが出るのに私一人飲まないので、怪計な顔をして「どうして飲まないのですか、不便ですね」などと文句を言われました。 

幸い私は健康体で力もありましたので、旅行中できるだけ一行の人を助けるように努めました。ホテルでもいっも一緒に宿る同僚は私と同年輩でしたが、坂道や遠路では苦労しておられたので、いつも手をとって助けました。また神学院の院長さんは、八十歳で歩行困難のため車椅子に乗っておられたので、手伝って押して上げたりしました。不思議なことに、皆さんの態度がだんだんと変わって来ました。若い牧師さんたちも初めは私を軽視していたようですが、彼らがエリコにあった小高い山に駆け登った時、私は後から追いかけて同時に頂上に達したので、今さらの如く私の体力に驚いて、その後とても敬意を表すようになりました。院長さんも「あなたはよい人ですね」と感謝されました。 

帰って来てから早速「昇栄」と「悔い改め」を送りましたところ、ある教会員からはとても面白く一気に読み終え、非常に感動しましたと感謝の手紙を受け取りましたので、さらにモルモン書や知恵の言葉のパンフレットなど送っております。彼らの中に一人でも改宗する人ができたらと望んでおります。 

「あなたがたはこの民に悔い改めを叫ぶことに生涯力を尽くし、一人でもわたしのもとに導くならば、わたしの父の王国で彼とともに受けるあなたがたの喜びはいかに大きいことか。」(教義と聖約十八章十五節

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。」(第一ヨハネニ章二十七節

第三は、なぜ主なる神はリーハイを新しい約束の地に導き、この末日にそこに新エルサレムを建てられたかをはっきりと悟ったことであります。 

「したがって、この地は主が連れて来られる者のために聖別されている。もしこの人々が主から与えられた戒めに従って主に仕えるならば、ここは彼らにとって自由の地となり、彼らは決して囚われの身に陥ることがないであろう。」(第二ニーファイ一章七節

今日のイスラエルはエルサレムを初め、イエスが生まれ育ち祈り人々を癒し、また伝道されたところがあまりにも人工化されて、当時の面影を失っています。ユダヤ教、回教、キリスト教各派が所狭しと競って教会堂を建て、特に聖誕地、山上の垂訓、十字架にかけられたゴルゴダの丘などには天主教、ギリシャ正教その他新教各派の建物が林立して、それぞれ異なった儀式を豪華に挙行しています。またイエスが十字架を負わされて登った山道は商店街となって、果物屋、魚屋などの臭気が充満しており、霊感を受けません。今主がお出になられたら、きっと答を取って両替屋の机をひっくり返されたと同様に、魚屋や果物屋の台を倒されるでしょう。ただゲッセマネの園でイエスが脆いて祈り、血の汗を流された二千年来のオリーブの古大木を見た時、そこに私たちの罪のため苦しまれたイエスの姿が浮かび、深い感動を覚えました。

「さて、あなたがたがわたしのもとに導いてわたしの父の王国に入れるようにした、一人の人と共に受けるあなたがたの喜びが大きいならば、もし多くの人をわたしのもとに導くとすればその喜びはいかに大きいことか。見よ、わたしの福音はあなたがたの前にある。わたしの岩、またわたしの救いがある。与えられると信じて、信仰をもって、わたしの名によって父に求めなさい。そうすれば、あなたがたは人の子らに必要なすべてのことを示す聖霊を受けるであろう。もしもあなたがたに信仰と希望と慈愛がなければ、あなたがたは何も行うことができない。」(教義と聖約十八章十六〜十九節

「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカ二十二章四十四節

もう二十年ほど前に、キンボール長老御夫妻が聖地を巡られて、帰途日本に立ち寄られ、安息日に横浜ワードを訪ねられて聖地のお話をされました。私は恵まれて通訳をさせていただきましたので、今でもはっきり記憶しておりますが、お二人は口を揃えて次のように言われました。 

「エルサレム、ベツレヘム、ナザレどこを訪ねても建物と人々の雑踏で何ら霊感されず、失望しましたので、夜ベツレヘムのホテルを出て遠く野原を歩いた時、羊飼と星を見て、初めてイエスさまはここでお生まれになられたと感じました」

「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。」するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ二章八〜十四節

「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。(マタイ二章二節

「見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」(マタイ二章九、十節

私は四十年近く我が主イエスが、魚夫であったペテロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネなどを人をとる漁師にしてあげようと選ばれ、その波をしずめ、またその水面を歩かれ、またよみがえってから共に親しく魚を食べられたガリラヤ湖を憧れていました。摂氏八度の冷寒肌をさす未明ではありましたが、ガリラヤ湖テベリヤの清水で身を潔めて空を仰いだ時、頭上に北斗七星が燦然と輝いていました。瞬間私は主は誠に生きたもうと言う強い霊感を受けました。

新エルサレム

聖地巡礼の中で、今回の旅行で強めた証が三つあります。そのひとつは、「なぜ主なる神はリーハイを新しい約束の地へ導き、この末日に、そこに新エルサレムを建てられたかをはっきりと悟ったことでした。一九八八年グァテマラ、メキシコに散在するモルモン書の遺跡を巡り、またモルモン書に記されている各地方を歩いて、その証をさらに強めたので、ここにまとめてみたいと思います。読者のモルモン書の勉学に、少しでもお役に立てば幸甚です。 

さらに一九六八年夏、教義と聖約の章を追って教会創立発展の史跡を巡ったこと、ならびにシオンの山プロボ、ソルトレークに約一年住み、プロボ神殿に半年ワーカーとして奉仕した経験が、ゆるがぬ証となったので、併せて列記したいと思います。 

そこで主は言われた。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」(ヨハネ十章十六節

「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取り、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書け。これはエフライムの木である。あなたはこれらをあわせて、一つの木と成せ。これらはあなたの手で一つになる。」エゼキエル三十七章十六、十七節

アメリカ大陸ユカタン半島のバウンテフルの周辺に、二ーファイ人が集まっていた時、復活した主は次のように言われました。「見よ、わたしはこの民をこの地に立てて、わたしがかつてあなたがたの先祖ヤコブと交した聖約を果たそう。この地は新エルサレムとなるであろう。天の力はこの民の中にあり、まことに、わたしはあなたがたの中にいるであろう。」(第三ニーファイニ十章二十二節

また一八三二年九月二十二日および二十三日に、オハイオ州力ートランドにて預言者ジョセフ・スミスによりて給える啓示の中に、次の二節が見られます。「まことに、主の言葉は次のとおりである。すなわち、新エルサレムの都は聖徒たちの集合によって、この場所、すなわち神殿の場所を起点として建てなければならない。この神殿はこの時代に築かれるであろう。」(教義と聖約八十四章四節)「まことに、主がその預言者たちの口を通して語ったとおり、主の民の回復のために、また新エルサレムの都となるシオンの山に立つ聖徒たちの集合のために、終りの時に設立された主の教会に関する主の言葉。」(教義と聖約八十四章二節

イザヤは末日に建てられる新エルサレムについて次のように預言しています。「終りの目に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべての国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる。われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。」(イザヤ二章二〜三節、ミカ四章十二節

ヨハネの黙示録にはこう記されています。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(黙示録三章十二節)「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示二十一章二節)  

末日聖徒はこう信じています。「わたしたちは、イスラエルの文字どおりの集合と十部族の回復とを信じる。また、シオン(新エルサレム)がアメリカ大陸に築かれること、キリストが自ら地上を統治されること、そして地球は更新されて楽園の栄光を受けることを信じる。」(信仰箇条第十節

エテルは次のように予言しています。「またこの地は新エルサレムが天から降って来る場所であり、主の聖所であると、彼は告げた。見よ、エテルはキリストの時代を目にし、またこの地の新エルサレムについて述べた。彼はイスラエルの家と、リーハイが出て来るエルサレムについても述べた。エルサレムは破壊された後、主のために聖なる都として再び築かれる。したがって、それは昔存在していたので、新しいエルサレムではあり得ないが、それは再び築かれて、主の聖なる都となる。それはイスラエルの家のために築かれる。また新エルサレムは、ヨセフの子孫の残りの者のためにこの地に築かれる。このことについてはすでに予型があった。」(エテル十三章三〜六節)「しかも、新しい天と新しい地がある。その天と地は以前のものに似ている。ただ以前のものは過ぎ去り、すべてのものが新しくなるだけである。その後、新エルサレムが成る。そこに住む者たちは幸いである。彼らの衣は小羊の血によって白いからである。彼らは、イスラエルの家に属するヨセフの子孫の残りの者の中に数えられる者たちである。またそのときに、昔のエルサレムも成る。そこに住む者たちは幸いである。彼らは、小羊の血によって洗われているからである。彼らは散らされた後に、地の四方および北の地方から集められた者たちであり、神が彼らの先祖アブラハブと交され聖た聖約を果たされるときに、それにあずかる者たちである。」(エテル十三章九〜十一節)

モルモン書の普及と新エルサレム

エゼキエルの預言によれば、地球を二分して東半球のユダの木である聖書に対して、西半球のヨセフの木であるモルモン書は、当然聖書と同様に世界に普及すべきものであります。ただ、新エルサレムが旧エルサレムに比し、年代的に大分新しいので、まだ聖書ほど普及しておりませんが、将来そうなるはずであります。またベンソン大管長が特に強調されたのも、目標がそこにあるからに他なりません。彼は次の聖句を引用して会員を激励しております。 

「また、わたしは天から義を下そう。また、地から真理を出して、わたしの独り子と、死者の中からの独り子の復活と、またすべての人の復活について証しよう。そして、わたしは義と真理が洪水のごとくに地を満たすようにし、わたしが備える場所、すなわち聖なる都に地の四方からわたしの選民を集めよう。それは、わたしの民がその腰に帯を締め、わたしの来臨の時を待ち望めるようにするためである。わたしの幕屋はそこにあり、そこはシオン、すなわち新エルサレムと呼ばれるであろう。」(モーセ七章六十二節

また新エルサレムに主の教会が回復されることについて、預言者ジョセフ・スミスは一八三二年九月二十二日次の啓示を受けました。 

「まことに、主がその預言者たちの口を通して語ったとおり、主の民の回復のために、また新エルサレムの都となるシオンの山に¢つ聖徒たちの集合のために、終りの時に設立された主の教会に関する主の言葉。」(教義と聖約八十四章二節

受け継ぎの地は複数

日曜学校のモルモン書のテキスト四十課に次の一節があります。「神の聖約の成就が始まる第三ニーファイニ十九章で、モルモンは私たちに語りかけている。すなわち、彼の語った言葉が世に出る時、それはイスラエルの子らがその受け継ぎの地に回復されることに関して神が立てられた聖約が成就し始めるしるしとなる、と説明している。モルモンが述べた受け継ぎの地は複数であることに注目すること。ユダヤ人はエルサレムの地へ戻り、ヨセフの子らはアメリカ大陸に受け継ぎを得る。第三二ーファイニ十九章八節参照。 

ここで主は、イスラエルの家のどの民に対しても、偏見をもって考えたり行動したりしてはならないと命じておられる。今日の世の中にはどれほどの偏見があるだろうか。非常に多い。私たちと姿形を異にする神の子らに対して、各自がどのような思いを抱いているかを反省してみる必要がある。モルモン書の中で神の選民をあざけったり、侮ったりしてはならないと神が特に言われたことは、重要である。全世界に広がるこの教会においても、やがて人種的な偏見がまったく無くなる時が来るであろう。神はいにしえの誓約を尊重することを私たちに確認しておられる」 

メキシコの百番目のステーク誕生

一九八九年六月二十五日、ポポカテペトル火山麓にテカルコ・メキシコステークが誕生して、メキシコは百のステークを擁し、アメリカを除いて最大なるシオンの国となりました。これは正にレーマン人預言者サムエルの預言の成就であります。彼は次のように預言しました。 

「まことに、たとえ彼らが不信仰に陥ったとしても、主は彼らの時代を引き延ばされ、わたしたちの先祖と預言者ゼノスとそのほか多くの預言者が語ってきた時が訪れるであろう。すなわち、同胞であるレーマン人に、再び以前のように真理が知らされることについて語ってきた、その時が訪れるであろう。まことに、あなたがたに言う。末の時代における主の約束はわたしたちの同胞であるレーマン人に与えられている。彼らは多くの苦難に遭い、地の面であちらこちらへ追い立てられ、狩り出され、打たれ、広く散らされて、避け所となる場所がなくなるにもかかわらず、主は彼らに憐れみをかけられる。」(ヒラマン十五章十一、十二節

今を去る百二十年前、すなわち一八七九年十一月に十二使徒のモーセス・サッチャーがメキシコに来て五年後、一八八四年にサッチャi長老はメリトン・G・トレジョー長老その他を随伴して、このテカルコ(メキシコ語で岩の家の意)近辺のポポカテペトル火山に登り、不毛の境界まで達してこのメキシコの地を献納したのであります。そしてその同じ年にこのテカルコ市に初めて支部が設けられました。一九六一年メキシコに初めてのステークが誕生して、三十年足らずで百のステークとなったのであります。メキシコ神殿は、東京神殿よりも後に、すなわち一九八三年十二月二日に献堂されたにもかかわらず今日、百ステークの熱心な会員たちが日夜参集し、毎半時間にセッションが開かれ、日に千人から二千人近くの会員が参入しております。誠に壮観で感動させられます。

モルモン書の地、中南米を旅して

私は恵まれて、かつて復活した主がこの地に現れ、彼らの先祖に親しく福音を説かれた地、モルモン書に記された遺跡を巡って、数々の有様を実感し、モルモン書について生きた証を強めることができましたので、その二、三を紹介したいと思います。 

ポポカテペトル山(五千四百五十ニメートル)。百二十年前、この中腹でメキシコの地が奉献された聖山で、その西方に讐えるシトラルペトル山(五千六百九十九メートル)と共に、山群峰の中に屹然とそそり立つ双壁の雄姿は、はくこうこう双頭に見る眼もまぶしい白皚々(はくこうこう)の万年の白雪をいただき、誠に壮観であります。人類の始祖アダムとエバを象徴するかのように相対しております。初めリーハイは海岸に沿って、長くその裾をひくこの山峰地帯に上陸しましたが、ニーファイ、ゼラヘムラと漸次北西方の平原地帯、ユカタン半島の方へ移動して行ったようであります。 

十九世紀初めジョン・ロイド・スチーブンスは、グァテマラ、メキシコ特にユカタン半島に散在する、エジプトのピラミッドにも勝る壮大な神殿、宮殿遺跡を踏破して、初めてこれを世に紹介しました。中央アメリカに住むマヤ族は、象形文字あるいは絵文字といわれるものを発明して、書物を作っていたと述べ、最初この地に移住した民は、アジアから渡って来たイスラエルの文化を持った民に、相違ないと推断しています。また彼らのこの地における発展・移動は、リーハイ、ニーファイの子孫が辿ったのと同じ経路を示しています。すなわち、グァテマラの東北地帯の大密林の中に(しず)まっているティカルから始まって、テクストラ、パレンケ、アズテック、ウクスマル、チチェンイツアと進展しています。しかも調査の結果、この民が忽然と消え去っているのを知り、いかなる原因によるものかと不思議に思っていますが、これはクモラの丘ににおける激戦とニーファイ人の全滅を探知したものではなかろうかと思います。 

またチチェンイツアの神殿の壁に彫刻されている巨大な数々の蛇頭は、十九世紀後半にこの一帯を踏査したアメリカの学者エドワード・ハーバート・トンプソンが調べた民の伝説によると、十二世紀の頃どこからともなくユカタン半島に姿を現したククルカンと言う皮膚の白い、顎髭(あごひげ)を伸ばした男が、戦争の捕虜としてチチェンイツアに連れて来られました。この民は早速この捕虜を、雨の神に捧げるいけにえとして、聖なる泉に投げ込みました。ところがククルカンは死ななかったのです。そこで彼らは掟に従い彼を助けだし、そして生きた神として崇めたのです。やがてこの白い皮膚をしたククルカンは、チチェンイツアの支配者となり、ユカタン半島で最も強い族長となりました。人々はこの支配者を崇めて、大神殿を建てました。ククルカンはユカタン半島に、マヤパン、ウシュマルなどの都市を建設し、ユカタン半島北部にかつての古王国の文化に勝るとも劣らない文化を打ち立てたのです。 

このククルカンという人物は、一体何者であったのでしょう。それも一切が謎なのです。ククルカンというのは、マヤ語で「つばさのはえた蛇」ということで、チチェンイツアの建物には、このつばさのある蛇の彫刻が、いたるところに彫りつけられています。これも、モーセが荒野でキリストの象徴として蛇を挙げたのに比し、誠に興味ある伝説であります。 

私は恵まれて昨夏この地帯を旅し、これらの巨大な遺跡を巡って、特に眺望の素晴らしいゼラヘムラ高原、神秘的なサイドン河、モルモンの泉、また復活した主の現れたユカタン北部のバウンテフルで霊感され、主が確かにこの地に姿を現れたことを知りました。また旅順の二〇三高地(爾霊山)そっくりのクモラ山麓に立って、ニーファイの民全滅の悲惨な光景が眼底に映り、乃木将軍が作った爾霊山(じれいさん)の漢詩を回想しました。

爾霊山険山豆難饗

男子功名期克難

鐵血覆山山形改

萬人齊仰爾霊山

シオンの都、プロボ市

ベンソン大管長は聖徒たちにモルモン書の普及を鼓舞して、次の聖句を引用されました。「また、わたしは天から義を下そう。また、地から真理を出して、わたしの独り子と、死者の中からの独り子の復活と、またすべての人の復活について証しよう。そして、わたしは義と真理が洪水のごとくに地を満たすようにし、わたしが備える場所、すなわち聖なる都に地の四方からわたしの選民を集めよう。それは、わたしの民がその腰に帯を締め、わたしの来臨の時を待ち望めるようにするためである。わたしの幕屋はそこにあり、そこはシオン、すなわち新エルサレムと呼ばれるであろう。」(モーセ七章六十二節)これは主がエノクに言いたもうた言でありますが、同章の六十九節には次のように記されております。「エノクとそのすべての民は神とともに歩み、彼はシオンの中に住んだ。それから、シオンはなくなった。神が御自身の懐にそれを迎え入れられたからである。そのことから、「シオンは消えうせた」という言葉が広まった。」

この末日に、主の再臨に備えてシオンは回復され、幕屋はところどころに建ち、聖徒ら(選民)は世の四極より集められています。聖徒が集まり住むソルトレークシティ、プロボもシオンとなる神殿が建てられています。主を賛えた歌に次の賛美歌があります。 

Rock of Ages

Rock of ages, cleft for me

Let me hide myself in thee.

Let the water and the blood

From thy wounded side which flowed,

Be of sin the double cure

Save from wrath and make me pure. 

 (日本語賛美歌集六十四番主よ、汝がみ手に

プロボ川の水源のひとつに、標高四千二百メートルの聖山ティンパノガスに対峙したほぼ同高のワサッチの岩間から流れ下っているブライダルフォールがあります。これまさに裂けたロック・オブ・エージ、主の脇腹から流れ出た血水を象徴しています。その川辺の岡の上にゴルゴダの十字架を象徴する三本の十字架が立っております。私は一九八八年九月十九日この聖山ティンパノガス山頂に登って、遥か眼下に白く光る幕屋プロボ神殿、その下に展開されたBYUキャンパス、ならびに聖徒たちの安らかに住まう平安の都プロボ市を眺めて、これぞ真にシオンだと感動したことがあります。 

山頂では、長い白毛のふさふさと垂れ下がった真っ白な、女神のような高山山羊が迎えてくれました。下山した時はすでに太陽も沈んでいましたが、今私が登・た山頂に、まばゆく光る白石のようなものが・いつまでも皓々と輝いていました。 

「勝利を得る者にはまた、白い石を与えよう。(黙示二章十七節)

 二〇三高地

二〇三高地を、生きた人間に例えるなら、二〇三高地は肉体であります。人はその精神を以て、肉体(弱点)に打ち克つことが非常に困難ですが、それが一生の歩む道、自己完成で、功名心がそれを遂行させるのです。面壁(めんぺき)九年の達磨大師(だるまたいし)の座禅の姿も、それで足がなくなった代りに七転八起の姿となったのです。私も若い時、鎌倉の円覚寺で、臨済宗の大管長朝比奈宗源(あさひなそうげん)について、一週間の大攝心(だいしょうじん)を修養し、その後十年以上続けているうちに足が曲がって来たので、ヨガに転向しました。この詩の後半については、鉄血で山を洗った(洗礼)時に、山形(肉体)が復活し(甦っ)て爾霊山となったことが記されています。そして乃木将軍の死は自決であって、自殺ではありません。自決はやはり、精神を以て肉体を克服する聖化の姿です。それは聖典(教義と聖約)に書かれている主の姿です。 

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカニ十二章四七二〜四十四節

「その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」(教義と聖約十九章十八、十九節

なお、この教義と聖約の言葉を証明するイエスの尊い自決の姿が、次の聖句で証明されます。「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得る(甦る)ためである。」(ヨバネ十章十七節)

受難劇のオーバアマルガウ村とレニングラードを訪ねて

西独バイエルン州の州都、ミュンヘン市から南へ八十キロ、人口わずか五千人のオーバアマルガウ村は、十年一度のキリスト受難劇(パッション)で世界に有名です。私は一九八〇年に催された時に知り、十年後の一九九〇年にはぜひ観たいと念願していました。ところが八十四年に三百五十周年を記念して特別公演があることを知って大喜びで、八十三年十月フランクフルトにいた長男を訪ねたのです。しかし、十一月長男がドイツを引き上げることになったので、せめてもと思い村を訪ね、青空舞台の大劇場に入って、三百五十年来使ってきた衣装や、丸い素木の大十字架を見て、強い印象を受けたのです。今回観た時には衣装がすっかり変わり、また十字架も小さな角材に変わり、いささか落胆しました。これは八十四年の特別公演の時、世界各国のユダヤ委員会から「反ユダヤ、ナチスドイツの行為を容認再興するものだ」として総攻撃を受けて、テキスト、舞台衣装に大々的に手が加えられたためとのことでした。 

オーバアマルガウ村は天を()するような山や岩に囲まれ、遥か青空の彼方には三千メートル級のアルプス連山が聳え、この大自然の懐に抱かれる舞台で、この村の市民だけによって伝統的に演出されるこの聖劇は、誠に受難のキリストが生きて語り、切々胸に迫り、恩寵身に浸み感激の涙に咽ぶばかりです。演出者が音楽隊、コーラス団員をも含めてこの村の住民だけに限られているのは、この劇の起源に由来しています。今を(さかのぼ)ること約三百五十七年前頃、この村を含めて南ドイツ、西オーストラリア、北スイス一帯にペストが流行し、多くの人が死んでいきました。オーバアマルガウの村会議員たちは一六三三年、市の中央に建っているゴシック式教会の中にある木製の十字架像の前で祈り・救い主キリストを記念する受難劇を挙行しようと誓つと・疫病が止み・その後ひとりも死ななくなったのです 

一六三四年に最初の公演があり、二回目は一六四〇年に開かれ、その後十年毎に公演され、二度の世界大戦による中断がありましたが、前述の特別公演などがあって、今年は三十九回目でした。劇場には六千人収容の席があり、五月下旬から九月下旬にかけて週に四日、毎朝九時開演、途中三時間の昼食休憩をはさんで五時間半に及び、世界中から

約五十万人の観客が来ます。BYUのツアーもありますが、切符は余程早く申し込むか、または団体に加入しなくては入手困難です。今年は五月十九日から始まりましたが、私たちは六月十八日に見ました。午前九時開演、総勢二千十二人の他、合唱団九十人、オーケストラ団員九十人という世界最大のキリスト受難劇の幕が上がりました。象牙色のヒダの入った長い絹の衣装をまとった九十人の合唱団が青空の舞台に登場、横一列に並びマリア懐妊から、キリスト生誕の喜びを歌います。九十一歳の真っ白な髭を蓄えた最年長のおじいさんは、杖をつきながら、四歳の最年少の坊やは、母親に抱かれてキリストの生誕を祝う市民の役として活躍します。誠に村をあげての一大家族劇、その親身切実さは骨身に浸透し、時の経つのを覚えませんでした。この素晴らしい聖劇を、今まで世界各地の国民が模倣して演出しようとしましたが、何れも失敗に終わったそうです。それは、この村がキリストの十字架によって救われ、ここの聖劇だけが生けるキリストの真実の恩恵によって始まったからです。 

最初のコーラスが終わると、まずパントマイムで禁断の実を食べたアダムとエバがエデンの園から追放され、神がケルビムと回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守る様が演じられます。人は神の面前から断ち切られますが、次に登場する贈い主キリストの十字架によって、再び神の御前に戻ることができるようになります。その犠牲の死と復活、永遠の生命が象徴されます。それからコーラスと舞台劇をおりまぜて、パームサンデイのエルサレム入城から復活昇天まで、新約聖書に記された通り、順を追って次のように展開されます。 

第一幕 キリストの聖市エルサレム入城 

第二幕 イエスのベタニヤにおける母マリヤとの別離 

第三幕 ユダの裏切りに備えたエルサレムへの最後の旅 

第四幕 最後の晩餐(イエス、パンと水に、御自身を新しい誓約として献身される

第五幕 ユダの裏切り 

第六幕 ゲツセマネに於けるイエスの苦悩とオリーブ山に於ける捕縛(ほばく) 

第七幕 アンナスの尋問と虐待 

第八幕 議会のイエス死刑宣言、ユダの良心の呵責(かしゃく)、ペテロの裏切りと悔悟 

第九幕 ユダの絶望 

第十幕 ローマ提督ピラト並びにヘロデ王の前に立つイエス

第十一幕 イエス十字架、礫死の宣言 

第十二幕 イエス十字架を負って、刑場ゴルゴダへ向かう 

第十三幕 イエスの十字架上の苦痛と死 

第十四幕 三日後のイエスの復活 

昇天して御父の右手に座す主イエスを演ずる人も、この十字架礫の二十分間は、大変な苦痛だと聞きましたが、最後の輝かしい復活、昇天の場面によって、救い主キリストが私たち罪人を救うために犠牲となられた、順いの真髄に触れることができます。 

私たちはミュンヘンでダッハウの収容所を見て、なぜ何百万のユダヤ人があんな悲惨な死に方をしたのか、不可解でしたが、ただ一つの理由と思われるのは、次の点です。この劇にも出てくるピラトが、ユダヤ人の祭司長や長老たち、律法学者らの前にイエスとバラバを立てて、イエスを許そうとしたのに対し、彼らは「イエスを十字架につけよ。」と叫びます。ピラトが手を洗って、この人の血について、私に責任はないと言った時、彼らは「その血の責任はわれわれと、われわれの子孫の上にかかってもよい。」(マタイニ十七章二十五節)と答えています。 

ただ私は、三十年程前にアンネの深い信仰と純真な愛情に泣かされ、十年程前アムステルダムの彼女の隠れ屋に行って、書かれた通り、そのままの状態を見、また約五十数年前私がハルビンでロシア語を勉強していた頃、ユダヤ人のゴルドン家に下宿していました。ちょうどその頃、アンネと同じ年頃の一人娘が、長い金髪をなびかせて踊ってくれた姿が、目に映って感慨無量でした。またフランクフルトでユダヤ人墓地を訪ねた時、ずらりと並んだ墓碑の死亡日が皆同日なので、びっくりしましたが、この痛ましい死を知って、同情の念に堪えませんでした。 

この聖劇ツアーに申し込んだ場合、二泊三日でミュンヘンを見学した上、バスで二時間位、美しい大自然のババリア地方、天然公園の中をドライブしながら途中ドイツ、ルードウィッヒニ世のゆかりの地、リンダーホン城等を見学して、オーバアマルガウ村に入ります。ホテルも近代のホテルと違って、恐らく二百年位は経っていると思われる、古風豊かな家族的親しみに溢れた民宿で、誠に心地よく楽しいです。また街には、十字架を始めキリストを記念する様々な彫刻、また民芸品を飾った店が立ち並んでいます。 

私の泊まったホテルの部屋の窓から、ちょうどマッタホルンのような一面断崖の甕え立つ岸壁の上に、十字架が建っているのが、黎明に輝いて実に印象的でした。この頂上を極めたある人が遭難し、その記念に建てられたそうですが、プロボ神殿の背後に、ちょうどこれと同じ格好の山が讐えています。これはスクワピークと言って、スクワと言うのはインディアンの一族が白人の村を襲撃することを、前以って知ったこの夫人が通報して、無事白人を救ったけれど、このことがインディアンに知られて戻るに戻れず、この絶頂から飛び込んで、自らの命を断ったとのことです。私たちは、今毎週土曜Bにプロボ神殿で働かせていただいておりますが、私は二十分のべールの合間に、窓からこのピークを眺めて、このキリストにあやかって、自らを犠牲にして人を救った、スクワ夫人の霊をとむらっています。先日小雨降る中を、深く峡谷に入って、真下から燦々たる剣岩累々(けんがんるいるい)たる断崖の下、遥か雨煙に厳然と屹立している岸壁を見上げて、これぞ誠にスクワ夫人の雄姿、永遠に神の宮居の背後に、主と共に立っておられる姿と、しばし感激の瞑想にふけった次第であります。

レニングラードの伝道

私は約半世紀以上前、ルソーの「懺悔録」、およびアウガスチンの「告白論」と、ならび世界三大俄悔録と称せられるトルストイの「復活」を読んで、非常に感動し、ぜひ原文で読みたいと望みました。また当時社会主義に傾倒していたので、ロシア語を勉強すべく、ハルビンの日露協会学校(後にハルビン学院と改名)に入りました。卒業の時、外務省留学生試験にパスして、モスクワに行く予定でしたが、北京留学となり、その後任官しても東亜関係に廻されたのですが、ロシアを見たいというのは五十数年来の夢でした。 

今度幸いにも、フィンランドのヘルシンキからレニングラードに入り、ネバ湖畔に讐え立つモスクワホテルに三泊して、少しでもロシアの民衆に伝道できたことは望外の喜びでした。 

学生時代に歌った寮歌の一節が、少しでも実現したのです。

興安(こうあん)の峰、風荒れて、バイカルの波騒ぐ時ウラルの峰に月もなく、迷える羊ここかしこ、ああ混沌のこの時に、正義の為に我立たむ」 

現に今、ヘルシンキから日帰りで夫婦の宣教師が派遣され、すでに数十人の信者が受洗して、支部が設立されたと聞きました。新任のヘルシンキ伝道部長は、私もBYUでお逢いしたことがありますが、ロシア語の権威で、ソ連伝道部(当時)も兼任されるとのことです。私は一年位伝道に出たいと思って、ソルトレークの教会本部の伝道部に行って、願い出たのですが、今のところ常駐宣教師は派遣しておらず、夫婦共にロシア語が話せなくてはだめだし、それにあなたは少し年を取り過ぎていると言われて断念し、プロボ神殿で働かせていただくことにしました。 

約七十年前のロシア革命で、レーニンが「宗教は阿片なり」と言って、ギリシャ正教の多くの聖職者を殺害し、教会を破壊し、信仰を弾圧して数十年、ゴルバチョフのペレストロイカによって、宣教師まで入れるようになった、この百八十度の転換は、不思議に思われます。私は、学生時代によく下宿していた白系ロシア人の家族に、ギリシャ正教の教会へ連れて行かれ、彼らの伝統的な強い信念を知っていましたので、これはきっと神様が、ロシア人のギリシャ正教を止めさせて、将来モルモンに改宗しやすいようにされるのではなかろうか、と思っていたのです。今後チェコスロバキアの伝道が再開され、オレム市の息子のワードからも、チエコに召された宣教師の送別聖餐式がありましたが、一九三五年頃、チエコに初めて伝道部が開設された時、十二使徒であったウィッツオ博士が同様のことを預言しておられることを、先日教会の文献で知りました。現に文豪でもあり、キリスト教哲学者と言われたトルストイは、先見の明があり、ローマカトリックより分離せるギリシャ正教の背教せるを喝破して、破門になりましたが、彼はモルモン教会が真の教会であることを知っていたようです。有名な話ですが、後にアメリカ東部の有名な大学の総長になられた人が、若い時に外交官としてロシアの米大使館に勤務していた時、ヤースナヤ、ポリヤナにいる晩年のトルストイを訪ねたところ、庭の花いじりをしていたトルストイが、「あなたはアメリカ人ですね」と招き入れて、「あなたの国にあるモルモン教について話して下さいませんか」と頼まれ、この外交官が「ソルトレークを一度訪ねたことがありますが、あまり知られていない宗派で、よく知りません」と答えたところ、「それは残念ですね。彼らが今の信仰を続けていくと、必ず世界に広がりますよ」と言われたそうです。 

またこれもよく知られた話ですが、ベンソン大管長が四十年以上前、アイゼンハワー内閣の農務長官をしていた頃、ソ連のフルシチョフ首相一家が訪米し、ベンソン長官がある農場へ案内した時、当時プラウダの主筆をしていたフルシチョフの娘のアジュベイが、あまりに熱心に、モルモン教のことを聞くので、フルシチョフ夫人が「お前改宗されるのではないか」とひやかしたそうです。彼らは、モルモン教徒が開拓時代に試みた全財産奉献による共同制度に、深い関心を示し、娘さんは特に知恵の言葉に感心し、オデッサにある保養地に禁酒禁煙を実施したと聞きました。またベンソン長官が、モルモン書六冊をお土産として差し上げたところ、フルシチョフは長官に「ぜひ一度我国をお訪ね下さい」と言われ、その後まもなくベンソン長官はモスクワを訪ね、ある教会でお話をされたら、何百人というロシア人が握手を求め、別れを惜しんだそうです。 

ペテルスブルグは、今日五百万近くの人口を擁するロシア第二の大都会で、一七〇三年、ピョール大帝が西欧諸国の大都会を模倣して、建てたものです。フィンランド湾に注ぐネバ湖畔にあります。一七一二年首都をモスクワからここに移して、ピータスバーグ(ペテルスブルグ)と命名し、西方への窓としたのであります。東方の「ウラジオストック」が「ウラジー」「ヴオストック」(東方を制覇せよ)であるのに相対しています。一九一四年第一次世界大戦で、ロシアがドイツに宣戦してから、このドイツ名をペドログラド(ペテロの街)と改名し、さらに一九二四年革命政府がレーニンの名を取って、レニングラードと改名したのです。そして現在ペテルスブルグに戻っています。革命の時、ロマノブ王朝皇帝一族が無惨にも殺害されたのに対し、日本はこの度の敗戦にもかかわらず、天皇制が維持されて、皇統が連綿と続く今上(きんじょう)天皇を迎えることができたのは、なぜでしょうか。外国の皇帝は自国の敗戦が近づくと、まず財産を外国に移し、亡命の用意をするのに反し、昭和天皇は日本開国以来初めて天皇自ら皇居を出られて、総司令部のマッカーサー元帥を訪ねられたのです。その時元帥は、天皇が戦犯にされないように頼みに来られたと思つたのに対し、天皇が「この戦争の責任は私にあります」と申し出られたのでびっくりし、クリスチャン精神豊かな元帥は、天皇を尊敬し天皇制を擁護されたそうです。クリスチャンと呼ばれなくても、昭和天皇は立派な福音の実践者であられたのです。 

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行なう者だけが、はいるのである。」(マタイ七章二十一節

昭和天皇の御葬儀の時、一六八力国から国の代表者が集い、君主をいただくネパール王国などは、国を挙げて喪に服したのもむべなるかなと思われます。 

市の中央にある、一七六二年に建てられたツアーの冬宮が今、エルミタージュ国立博物館となって、ロシア人が民族の宝物と呼ぶ陳列品が、三十五万点もあり、パリのルーブル博物館よりも大きく世界一だと言われています。その中には、シャラーピンが歌った有名なボルガの船曳きの名画などが、飾られてありました。その前の小さな公園になったようなところに、有名な詩人プーシキンの右手を伸ばして空を仰ぎ見る像が立っていましたので、その下で記念写真を撮りました。私は学生時代、プーシキンの詩が好きで多く暗記しましたが、いまだに忘れない名詩がありますので、その一節を掲げます。それはギリシャ正教の大僧正が、モスクワの赤の広場にあるような大寺院の地下室で、窓から差し込んで来る光に、教会誌の大巻を開いて羽ペンで綴っているのです。 

「最後にもう一言、書き添える言がある

これで私の使命は終る

神がこの罪深い私を証人として、この世に

遣わされたことは無駄ではなかった。

世紀のほこりを払って正しい言を書き綴る

スラブの子孫をして、これを読み、各々

自己の道を選ばしめよさようなら」 

この博物館の近くに、青空高く黄金のドームが甕えていますが、これは大イサク寺院で私たちが入った時、ちょうどペレストロイカによって許可となった、ミサが行われておりました。 

出発の朝、帽子をかぶったおばあさんに教会への道を問うたら、今私も行くところだと、喜んで同伴してくれました。この日、早朝にもかかわらず老若男女大勢の人が入って、熱心に祈祷しておりました。 

私たちについたガイドは、モスクワ大学を出たインテリでしたが、あまり英語ができないのでロシア語で話したら、とてもよくしてくれました。また列車の婦人車掌は喜んで、いろいろ自分の家族について話し、記念の絵葉書をたくさんくれました。一流のレストランに夕食を取りに行った時、今夜は貸切だと断られたのですが、私がロシア語費、はるばる遠くから来たのだと頼んだら、入れてくれ一行に大変喜ばれました。またその夜、一流の劇場にドラマを観に行ったのですが、死後の霊界などが出て来たのには、唯物思想マルキシズムに立脚するソ連(当時)で面白いと感じました。 

街頭を歩いている人、また名物の地下鉄への長いエスカレーターで、列になって上下している人々の顔が、どうも暗く感じられるのは、イエスの光、福音がないからで、これは中国大陸を旅した時も同様に感じたことでした。なぜ何十万もの学生が、天安門で自由を求めて死んでいったのでしょうか。私は約五十年前北京に三年間留学した時、北京大学、師範大学、中国大学の学生たちと、中日学生修養会を組織し、毎日曜日に集まってあの天安門前で共に運動し、討論会など開いて研究し合っていたので、今日彼らの後輩が、同じあの広場で、自由を求めて尊い血を流していったのを、涙なしには見られませんでした。 

自由を求める叫びは、イエスの福音を求める叫びではないでしょうか

イエスは言われました。 

「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ八章三十一、三十二節

中国大陸には十二億、ロシアには四億、インドには七億、ほとんど世界の人口の半数以上が住んでいます。このアジア大陸にまだ響の光が差していないのです。彼らはそれを求めているのです・そして今やその扉が開かれたのす。アメリカの宣教師によって救われた日本の末日聖徒の、これから育つ若い人たちの使命は、ここにあるのではないでしょうか。 

キンボール大管長の世界伝道プランは、日本から中国大陸へと謳っていました。ヒュー・B・ブラウン副管長は三十数年前、関西の大会の講演で、日本人のロシア伝道を預言されました。 

主は私たちに命じておられます。 

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し……見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイニ十八章十九〜二十節)

あとがき

今般津田、福永両兄弟の御尽力により、拙著「昇栄」(一九八五年発行)、「悔い改め」(一九八⊥ハ年発行)に「玉山」(一九八六年発行)の一部を加え、株式会社フリーマンより出版して下さることを心から感謝し、会員皆様の御愛読を願えれば幸甚です。 

四年前、妻尚子が肝臓癌で後半年の生命と宣告された時、私はあまりのショックで倒れました。意識を回復し、尚子に医者を呼ばないでくれ「いつも私の方が先に行くからと言っていたので主が迎えに来て下さった」と言ったのです。尚子はびっくりして急遽二人の息子を呼びました。灌油の儀式をしていただいたらまたよくなったので、主は最後まで尚子を看なさいと仰せになられたと覚り、最善を尽くしました。いよいよ最後が近づいた時、僕も後を追ってすぐ行くよと言ったら「あなたはまだこの世に務めがあるから、それが終わってからいらっしゃい」と言われました。なるほど私はまだBYUステークの祝福師として、三カ国語で祝福させていただき、すでに諸々の民が来ており、待っていることを覚りました。 

また私たちは主の宮居、神殿で永遠に結ばれているから、復活して必ず逢えるという証をこれから人生を歩む人々に立てる務めが残っていると自覚し、少しでも皆さんのお役に立ちたいと念願しております。 

皆様の上に限りなき主の愛と祝福が、豊かに注がれますように祈っております。

一九九九年六月二十日 

渡部正雄 

 

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昇栄への備え

1999720日初版発行

著者……渡部正雄

編集者……津田政廣

発行者……福永隆

発行所……株式会社フリーマン

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印刷・製本亜細亜印刷株式会社

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