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日本の教会員

父なる神に捧ぐ-1

 

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数週間前に父なる神に捧ぐ ーー沖村一夫、周子の改宗と献身の日々主著者:菊地登志子 、発行日2007年11月25日を紹介しました。今週から許可を得て連続し始まります。

 

掲載一部

 

まえがき

 

菊地兄弟と私が、初めて沖村一夫兄弟と周子姉妹にお会いしたのは、一九九四年九月一日でした。私たちは、東京神殿会長とメイトロン(神殿会長夫人)として、着任した時でした。

 

神殿会長は、伝道部会長と同じように、神殿宣教師の皆さんと、定期的に面接する機会があります。メイトロンは姉妹宣教師や神殿儀式執行者(オーディナンス・ワーカー)の方々と親しく交わることができます。神殿会長が何度か、皆さんと面接して行く内に、特に沖村兄弟姉妹の歩んで来られた人生と、彼らの人柄に触れることができました。沖村兄弟は、宣教師(ガース・ノーマン長老)に会って、福音を学び、改宗しました。しかし人生の荒波にのまれ、十七年間教会に休むことになりました。ある日、「主の御霊」が教会に戻るように告げるのです。その日以来、教会に戻り、愛する妻、周子姉妹を改宗させたいとの願いから、彼のとった行動は、日本の聖徒たちに希望と勇気を与えてくださるに違いありません。御二人は、失った信仰の道を戻そうと、聖文を学び、教会の歴史を学びました。日本の津々浦々には、沖村兄弟姉妹のように、天父を愛するお年を召されている方々が、たくさんおられます。御二人の証を読まれる方々の心が、その方々の魂に流れているイスラエルの血が、再び燃え上がるように願っています。

 

第一章 改宗と献身

沖村一夫の改宗と神への献身に至る道程

 一、沖村一夫の贖いは、中国から始まった 

 一九四三年(昭和十八年)、沖村一夫、二十一歳の時、徴兵により中国で日本の軍隊に従軍した。沖村は、持ち前の正義感が高じて、慰安婦として捕われていた地元の少女を哀れに思い、ある夜囲い部屋から、そっと彼女を逃した。しかし、その行為はすぐに発覚してしまう。

 そのため連隊長から、意識が無くなる程の、制裁を受けたのである。今も、その時の後遺症として、耳の鼓膜は損傷したままだ。

 日本に帰国する時、少女の母親は彼の善行に、心から涙して感謝の印に、持ちきれぬ程の食糧を手渡してくれたのだ。 

 二、ガース・ノーマン長老との奇跡の出会い 

 沖村一夫は二十九歳で独立し、地質調査会社を起こす。広島で採掘の下請事業をしていた時、部下に社員の給料と資財全部をすべて持ち逃げされ、裸一貫になってしまった。

 途方に暮れた彼は、その時、自殺をもしかねない状態であった。そんなある日、広島市内で見知らぬ外人から声をかけられる。

 その人こそ、ガース・ノーマン長老だった。

 長老は彼のただならぬ様子に気づき、話しかけ、彼の悩みのすべてを受け入れ、主イエス・キリストの福音について、熱心に語った。

 そこから沖村兄弟の、信仰の旅が始まるのである。沖村一夫、三十三歳の時であった。 

 三、三十八歳で教会から遠ざかる 

 一度つまずいた彼は、なかなか立ち直ることができず、生活苦と、国内の各地を転々としなければならない仕事柄、やがて信仰心も失せていった。 

 四、現在を二人三脚で築いた姉妹との結婚 

 四十三歳になった沖村は、水利工業広島営業所長、吉本氏の紹介で、周子と結婚。これを機に、会社明星を設立。 

 五、恩師瀧口先生との運命的出会い 

 一九六四年(昭和三十九年)広島水利工業の下請として、奥湯田温泉で、朝早くから夜遅くまで、なりふり構わず熱心に働く沖村の仕事振りを見て、えらく感動した人物がいた。時の自民党山口県会長、山口県農協経団連会長、山口県議長などを歴任していた瀧口先生であった。

 その後、彼の後押しもあり、見事奥湯田温泉の採掘を成し遂げたのである。

 六、再び教会に復帰 

 周子との結婚も果たし、事業も軌道に乗り、安定してきた矢先、一九七七年(昭和五二年)過労による居眠り運転で、大事故を起こす。

 車は谷へ転落、九死に一生を得て助かるのである。

 奇跡の生還を経た沖村一夫は、長期間信仰から遠ざかっている自分に気づき、再び教会に復帰する決意を固める。お休み会員になって十七年の歳月が経っていた。

 七、愛する母の死・待ちに待った姉妹の改宗 

 一夫と苦労を共にした妻が、体調を崩したある時期、彼は毎日のように、伴侶の肩揉みを、二年間続けた。

 沖村家に嫁いでから十五年間、周子は一〇〇歳でこの世去った一夫の母と、一度も言い争いをしたことが無かった。

 死の間際、母は周子を枕元に呼んで「私が死んだ後も一夫と仲ようして、ついていきんさいや」と言って、息を引き取られた。

 愛する母の今際の一言、献身的に尽くしてくれる一夫の愛情の深さを知った時、どこまでもこの人について行こうと強く決心し、一九九〇年、周子は教会の扉を開いたのだった。 

 八、東京神殿での宣教師生活 

 一九九四年神殿宣教師に召され、妻と共に東京神殿に赴任。

 全国から召された神殿宣教師のメッセージにもあるように、沖村兄弟姉妹は、東京神殿で寝る間も惜しんで、主に仕え、奉仕する喜びに浸る。

 また、山口での事業は、共に今まで築き上げたくれた仲間に、召しが終わるまで、すべてを預けるのである。 

 九、教会歴史ゆかりの地へ旅に出る 

 一九九八年夫婦で教会の歴史的重要な場所を訪れる。回復された神殿時代の始まりとなるジョセフ・スミスと初期の聖徒たちの献身と迫害、信仰を現地で学ぶ。「聖なる森」、パルマイラ、クモラの丘、野外劇場、預言者や使徒の家、カートランド、ノーブー、カーセージやリバティーの牢獄、インデペンデンス、アダム・オンダイ・アーマン、リッチモンドなどの歴史ゆかりの場所と街を訪れる感動の旅であった。 

 十、教会堂の土地を献納 

 事業に成功した沖村一夫は、駐車場にも、こと欠く手狭な山口駅前の教会から、自身の所有していた土地を一九九九年に教会堂の建設地として献納する。

 その内訳は、土地約三百坪×二十万円=六千万円、車道=千万円、税金その他で三百万円、合計七千三百万円。

 税金まで献納した沖村に対して、この業務に携わった税務署の職員は、この前代未聞な行いに、思わず驚嘆したそうだ。 

 十一、イエスの聖地、エルサレムへの旅 

 同年一九九九年の七月に沖村夫妻は、イスラエルの聖地を巡る一週間の旅に出掛ける。

 救い主イエス・キリストに思いを馳せ、イエス・キリストの歩まれた場所へ行くことにより、より身近に聖書の記述を学ぶ。 

 十二、沖村一夫、念願の故郷、生地に帰る 

 菊地長老の計らいにより、誕生の地、韓国全洲市、益山市に帰還。自分の生まれ育った、当時のまま残っていた家、通った学校、遠足に行った公園などを訪ねる。

 父の仕事上の関係で十一歳までいた、幼少と少年時代の記憶が蘇り、七十年間の空白を瞬時に埋める旅となった。二〇〇二年六月、八十歳の旅であった。